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連載企画

おどろ木、びっ栗、森のくらし

第4回 縄文ポシェット顛末記 2017年8月28日

クリが縄文人の生活の基盤食料であり、基盤生活物資の資源でもあったことを紹介してきましたが、もちろん縄文人はクリだけで生きてきたわけではありません。 (さらに…)

第3回 縄文人はクリをどう利用した? 2017年7月28日

初回、第2回と、あまりにもまじめに取り組みすぎました。元大学教員というのはすぐに「講義調」になってしまうのは、もう、これ根っからで、自分でも時々「臭いなあ」と思うのですが、でもついつい「教訓」垂れてしまって、ますます嫌悪感に陥るのです。 (さらに…)

第2回 縄文人はクリの中に棲んだ? 2017年6月26日

今から約1万5千年前以降、氷河時代が終わり地球温暖化が足早に進む中で、寒冷な時期が終わるのを息を潜めてじっと待っていたクリは日本列島で急速に勢力を拡大し、その過程で縄文人と出会ったわけですが、クリが縄文人の生活の中でもっとも重要な位置を占めるようになるのはずっと後、縄文時代の後半に入る頃からです。

「花粉分析」という手法は、堆積土中から花粉を取りだし、何の種類がどれだけあるかを調べてその堆積土が作られた時代の分析地点の廻りにどんな植生があったのかを明らかにするもので、植生環境復元に大いに力を発揮します。
単純に考えればたくさん生えていた植物の花粉がたくさん出てくる、逆に言えばたくさん花粉が出た植物がたくさん生えていた、ということになります。ただ、花粉は地面に落ちると微小生物の餌になったり、菌類やバクテリアに分解されたりしますので地上性の堆積物にはほとんど残らないこと(水の中や湿原などの堆積物ではよく残る)、植物の種類によって生産される花粉の量が大きく違うこと(ハンノキやスギなどの「風媒花(ふうばいか)」はたくさんの花粉を作り、トチノキやユリなどの「虫媒花(ちゅうばいか)」は花粉生産量が少ない)、クスノキ科など堆積物中で花粉が壊れてしまうものなどは検出できないことなど、さまざまな「障害」がありますが、これらの問題点をうまくクリアーして初めて、当時、そこにどのような植生があって、どのような景観であったかを知ることができるわけです。

三内丸山遺跡でも多数の地点で花粉分析がなされ、実に面白いことが分かってきました。

図1は吉川昌伸さん(古代の森研究舎代表)が三内丸山遺跡で行われた7地点(+α)の花粉分析結果を地点毎に時期毎に簡略化して表示した、いわば三内丸山遺跡における花粉分析の「総まとめ」と言えるものです。

図1. 三内丸山遺跡の花粉分析結果のまとめ(吉川他2006を加筆)

図の一番左側は時間軸で放射性炭素年代と縄文時代の時期区分が書いてあります。その右は土器型式など、そして吉川さんのA〜Gの植生期区分があり、中央に7地点(+α)の花粉分析結果を簡略化して示してあります。●はクリ、■はブナ、□はナラ類、◯はトチノキなど、左上の凡例にある樹種を示します。各地点のデータはヨコにこれらのマークが10個分(中には1/2になっているのが二つ並んでいるのもある)あります。一つのマークが花粉10%を示し、全部で100%というわけです。この10個分1行が約100年間とのことです。
この図に示されているのは5%以上出現したメジャーな樹種だけで、それ以下のマイナーな種類は省略されています。そして赤破線の枠内が三内丸山遺跡が非常に栄えた時期です。この遺跡に人びとが住みつきはじめたのは放射性炭素年代で5050年前、縄文時代前期、円筒下層式という土器を使っていた頃からだそうですが、その頃から遺跡内の各分析地点でクリの花粉が目立って増え始めます。それが赤破線枠に入る頃になると、何とクリ花粉が90%を超える地点が多くなります。そしてそのような状態は三内丸山ムラが終焉する縄文時代中期の終わり頃(放射性炭素年代で約4000年前)まで続きます。

なにが「おどろ木、びっ栗」といえば、このクリ花粉の「驚異的」な高率さです。この赤破線枠の中で三内丸山のムラはずれの湿地であるP8地点で35%という低い率のところもあるにはありますが、大部分でこの期間を通して60%以上、そして90%を超えるという地点・時期も少なくないのです。90%!一体この数字は何を意味するのでしょうか?
吉川さんはこの高率のクリ花粉を理解するため、山形県小国町の「まみの平自然観光栗園」というところで地面に落ちたクリの花粉を分析しました。栗園は約4ヘクタールで600本のクリの高木からなる純林です。周囲をコナラが主体の落葉広葉樹林とスギ植林が取り囲んでいます。分析の結果、栗園内ではクリ花粉は80%以上になるところもあり、結論として60%以上は「クリ純林のまっただ中」、クリ林から20m離れると5%、200mになると1%以下になってしまうということです。
この結果を三内丸山遺跡に当てはめるとどうなるでしょう。まず赤破線枠内はほとんど60%以上なので「クリ純林のまっただ中」と言えます。つまり放射性炭素年代で約5000年〜4000年前までの1千年間、三内丸山遺跡はクリ林のまっただ中であった、三内丸山ムラ=クリ林であった、ということになります。それにしても90%を超える、ということは更に凄いことになっているわけですが、それはなぜなんでしょう? 吉川さんの栗園の結果をよく見ると60%を超える「クリ純林のまっただ中」にあって、残りはなんの花粉かというと、スギとナラ類です。つまりこの栗園の周囲にある植生から飛来していた花粉がクリの比率を押し下げているのです。ということは、三内丸山ではこの「クリの比率を押し下げる周囲の植生」が無かったことを意味しているのではないでしょうか? つまり、ムラの中、周囲にはクリばかりがあって、その外側には草原状の植生ゾーンがあり、更に遠くなってナラ類主体の二次林、更に村から離れてブナなどの自然林、という植生構造をしていたのではないかと考えるのが妥当なように思います。

花粉分析や様々なデータを勘案して辻誠一郎さん(東京大学教授)達は図2のような復元図を描いています。青森湾に向いた台地のヘリにある遺跡として実によくできた図と感心します。

図2. 三内丸山遺跡の景観モデル(辻他2017)

クリはムラの中に低木として、ムラの外側にコナラなどと混じった若木の林(いわゆる二次林?)が、更に外側はクリの高木のある落葉樹林、そして更に遠くにはブナ・ミズナラの自然林が描かれています。基本的なところはこの図に全く賛成なのですが、いくつか私の思うところとの違いがあります。第一にムラの中の「クリの低木林」。これは図3にあるように枝を剪定して,ちょうど今のリンゴ農園のような感じですが、こういった樹がムラの中を埋め尽くしていたとするようです。

イラスト

図3. 低木クリ林の剪定のイメーシ(辻他2017/復元イメージ:安芸早穂子)

私の考えはムラの中には大小様々な大きさのクリが数本〜数十本集まった「叢(くさむら)」が家々や様々な施設、道路などの合間合間にそこいら中にあった、というものです。樹は「剪定された低木」ではなく、すっくと伸びた若木で、直径15cmを超えるほどの大きさになったものから用材に切り倒され、空いたところには苗が植えられまた若木が育っていくというイメージです。切り倒した木の枝葉はもちろん日々の燃料材になったことでしょう。その他、ムラの直ぐ外側の「クリとコナラなどの低木林」という部分は「草原状」ではなかったかと考えるなど、多少の考え方の違いがありますが、いずれにしても「縄文人はクリの中で暮らしていた」というのは大きく一致するところです。
縄文人はクリ花粉症にならなかったのかしらと心配してしまいますが、それはともかく、これほどクリに惚れ込んだ縄文人、そのクリをいったいどのように利用していたのかを次回見ることにしましょう。

【引用文献】
辻誠一郎・早川裕弌・安芸早穂子・吉川昌伸・吉川純子・植田弥生・鈴木茂・安昭炫・一木絵理・安室一. 2017.  三内丸山遺跡の集落景観の復原と図像化. 三内丸山遺跡年報(青森県教育委員会)20:36-51.
吉川昌伸・鈴木茂・辻誠一郎・後藤香奈子・村田泰輔. 2006. 三内丸山遺跡の植生史と人の活動. 植生史研究 特別第2号:49-82.

第1回 縄文時代はクリ、くり、栗 2017年6月8日

はじめまして、鈴木三男という、頭が禿げて白い髭を自慢にしているおじさんです。 (さらに…)

プロフィール

おどろ木、びっ栗、森のくらし

執筆者一覧

1947年福島県白河市生まれ
東北大学名誉教授


東京大学農学部助手、金沢大学教養部助教授、東北大学理学部助教授、東北大学教授(大学院理学研究科、植物園、学術資源研究公開センター)を歴任。

 専門は植物形態学、古植物学、植生史学、考古植物学。
 遺跡から出土した植物質遺物の形態、組織構造から植物種を同定し、昔の人びとの植物利用についての研究を展開。

 定年後は北海道の東の果てにある標津郡標津町にログハウスを建てて移住。研究を続けながらも大自然の中でトラウト&サーモンフィッシングと様々な北の国の植物や動物にふれる生活を満喫。釣りの腕前はいまひとつ。
 また、三内丸山遺跡発掘調査委員会委員をはじめ、(社)日本植物園協会会長、仙台市杜の都の環境をつくる審議会会長などをつとめ、現在も各地の遺跡調査指導委員会や文化財審議会委員等として活躍中。

 主な著書に、
『植物解剖学入門』(共訳/八坂書房1997)、
『日本人と木の文化』(八坂書房2002)、
『クリの木と縄文人』(同成社2016)、
『ここまでわかった!縄文人の植物利用』(共著/新泉社2014)、
『さらにわかった!縄文人の植物利用』(共著/新泉社2017) などがある。

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