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連載企画

みっちゃんのおどろ木、びっ栗、森のくらし

第11回 フィナーレはやっぱりウルシの話で 2018年3月27日

今回がこのコラム担当の最後になります。私はこれまで50年近くにわたって縄文人の植物利用を研究してきました。このコラムでは食料と木材としてのクリ、編みかごのへぎ材、縄のシダ、そして根っこの利用と、びっくり仰天の連続だったわけですが、忘れてならないのは「ウルシ」です。縄文時代の遺跡からは多数の漆を塗った製品が出土します。多くは赤彩でベンガラ、水銀朱が使われているのですが、この赤い漆製品というものは縄文人にとって無くてはならない、非常に意味のあるものだったようです。まさに縄文文化を特徴づける大きな要素と言えましょう。その漆製品の元となっているのはウルシの木です。ウルシを差し置いて縄文は語れません。

さて、ウルシですが、「ウルシ」と「漆、うるし」とは使い分けがされます。
「ウルシ」はウルシ科ウルシ属のウルシToxicodendron vernicifluum (Stokes) F.A.Barkleyという植物の種類、樹木を指します(図1)。「漆、うるし」とはウルシ科の樹木から取った樹液(塗るためにいろいろ加工したものも含めて)、あるいはその樹液を塗ったもの(=漆器、漆製品)を指します。違いはウルシから採った樹液を塗ったものは漆器ですが、ウルシ科の他の樹種(アンナンウルシToxicodendron succedaneum (L.) O.Kuntze.(図2)、ビルマウルシGluta usitata (Wall.) Ding Hou(図3)など)から採った樹液を塗ったものも漆器です。もっとも現在ではアクリルやカシューなどの人造塗料を塗って「漆器」と詐称しているひどい例もたくさんありますけれど。

図1 日本のウルシ。
(左)若い実を着けたウルシの枝。葉は大きな羽状複葉。雌雄異株で、雌にはソラマメ型の実がなる。
(右)北限の漆畑。岩手県浄法寺の漆苗を取り寄せて植えたもの。北海道網走市藻琴。

 

図2 ベトナムハワイ近郊のアンナンウルシ(ハゼノキ)畑。
(左)日本のハゼノキは美しく紅葉する落葉樹だがここベトナムでは常緑。
やはり雌雄異株でソラマメ型の実がなる。
(右)漆掻する木はかなり細い。下から順番にシーズン毎に一つ傷をつけ、貝殻に漆液を受ける。

 

図3 ビルマウルシ(ミャンマー中部のTawgyin村)。
(左)ビルマウルシの木は高木となり、葉は大きな単葉で、ホオノキのような葉だが常緑。
(右)漆掻の傷をつくっているところ。60cmほどの間隔で縦一列に傷をつけ漆液を採る。翌年は同じ木の別な面で縦一列に傷をつくることを繰り返す。

 

日本の漆器生産に使われる漆液はウルシがほとんどで、アンナンウルシやビルマウルシはわずかのようです。またウルシでも90数パーセントは中国産で日本産はほんの数パーセントしか無いと言います。この辺のことは私の専門外のことなので他書に譲るとして、ウルシという植物がヒトと出会い、そしてヒトと共に歩んできた足跡、ウルシの旅をたどってみましょう。

ウルシ科あるいはウルシ属というのが地史上いつの時代に生まれたかはよく分かっていませんが、筆者の推測では恐らく白亜紀の後期、1億年くらい前のことでしょう。ただ「ウルシ」という種類がいつ生まれたかはそれよりは後でしょうが、さていつのことやらとんと見当がつきません。「ウルシ」と同定される化石は後氷期以前は見つかっていません。ウルシ属は北米と東〜東南アジアに10数種あります。日本にはウルシの他ヤマウルシ、ヤマハゼ、ハゼノキ、ツタウルシのあわせて5種、ウルシ属に近縁なものとしてヌルデ属のヌルデがあります。形態が良く似ているのでかつてはみんなヌルデ属に入れられていましたが、近年、ヌルデと他の種類とは遺伝的にかなり離れたものであることが分かり現在では別属とされます。
さて、問題はウルシ、トキシコデンドロン・ヴェルニシフルウム(Toxicodendron vernicifluum)です。植物学の本を見るとどれもこれも大陸原産、中国原産などと書かれています。つまりウルシの木は日本自生ではなく、いつの日か日本列島に持ち込まれたものだということです。ではそれはいったいいつのことなのでしょうか?
私は「考古植物学」の旗を掲げていますが、遺跡などから出土する植物遺体すべてをカバーしきれるほどの力量があるわけでは無く、出土した木材などを主に扱ってきました。遺跡から出土した木材をカミソリで切って顕微鏡で見てその樹種を同定するというものです(図4)。化石や遺物を「同定する」という作業は、あくまでも現生種との比較から始まります。同じ属に分類されるということは遺伝的に近縁であるということですから、すがた、かたちがお互いに良く似ているのが当り前です。良く似ているものをきっちり識別するというのは容易なことではありません。そのためには現生種のたくさんのサンプルを用意して細かいところまでよく観察・計測したりして現生種で識別できるようにして、それから化石や遺物との比較をすることになります。

図4 遺跡出土木材の切片作成の様子(中国浙江省田螺山遺跡にて)

ウルシ属の樹木の木材構造は蔓植物であるツタウルシと南方系で散孔材(年輪内にある道管の大きさがほぼ均一)であるハゼノキ、ヤマハゼは除外できるのですが、ヤマウルシ(図5)とウルシは非常に良く似ていて識別できていませんでした。あっ、ここで余計なことを! ヤマウルシはヤマウルシToxicodendron trichocarpumという種類で、「山にある」ウルシではありませんから念のため。全国の山野にある低木で紅葉が非常に綺麗です(ちなみにウルシの紅葉はお世辞にも綺麗と言えるものではありません)。この両者を木材構造で区別できないことから私たちは出土材の同定結果を「ウルシ属」と報告してきました。内心では、これはヤマウルシだろうと考えていました。というのは、縄文時代の東日本は落葉広葉樹の二次林が拡がっていたようで、そういう林にはヤマウルシは普通に生えていたと考えたからです。

図5 美しく紅葉したヤマウルシ。全国の山野に普通に自生する落葉低木である。

こうした遺跡出土木材の同定を全国、それも氷河期から江戸時代までまんべんなく行っていくうちに、どうもヤマウルシにしてはおかしいなという木材が各所から出土していることに気づき始めました。そこで長年一緒に出土材を研究してきた能城修一さん(明治大学黒耀石研究センター客員研究員)がウルシ属各種、特にウルシとヤマウルシの木材を苦労しながら多数入手してその木材構造を徹底的に比較しました。そうしたら、年輪内での道管の太さの変化パターンがこの両種で違うことが分かったのです(図6、7)。この形質を使って両者を識別できることになったのです。

図6 ヤマウルシとウルシの木材(横断面)の比較(能城修一氏提供)。木材の基本的な構造は同じだが、ピンクの破線内の道管がヤマウルシでは小さく、ウルシで大きいことが分かる。

 

図7 ヤマウルシ(A:左)とウルシ(B:右)の年輪内での道管径の変化(能城修一氏提供)。
Aは多数の個体での変化、Bはウルシ1個体の中心から外側(最外年輪は36年)の変化であることに注意。ヤマウルシでは年輪始めから年輪終わりにかけて順次道管径が小さくなって行くが、ウルシでは若齢部では道管径は小さいものの樹齢を重ねると道管径が大きくなり、特に年輪の中間部分ではヤマウルシに較べると顕著に大きい。

そこで、これまで全国の遺跡から出土した木材のうち、「ウルシ属」と同定していたもののプレパラ−トを東北大学植物園の収蔵庫から引っ張り出し、全部を検証しました。そうしたら驚くべき結果が得られたのです。なんと北陸〜東北日本の15の縄文時代草創期〜晩期の遺跡から実に359点ものウルシの木材が見つかったのです(図8)。

図8 縄文時代のウルシ木材遺体の分布(能城修一氏提供)。桃色が草創期、赤が前期、橙色が中期、黄緑色が後・晩期。ウルシの木材遺体は西日本では出土していない。

最古はこれまで毎回のように登場した福井県の鳥浜貝塚で、縄文時代草創期の「自然木」(人間が使った形跡のない木材)です。この木材は1985年に発掘されたもので、私たちが1990年にウルシ属として報告したものです(能城、鈴木1990)。1990年の発表に使ったプレパラ−トを再検討した結果(図9上段)、これは間違いなく「ウルシ」であることが分かったのですが、これが本当に「縄文時代草創期」のものかどうかは大問題です。というのは先に紹介しましたように、大部分の植物学者はウルシは大陸からきたものであると考えていましたから、その渡来時期が縄文時代草創期まで遡るとなると、そんな古くに?農耕など全く始まっていないと考えている草創期の縄文人が海を渡ってタネを運んだなんてことがあるのか、など、それこそ「そうそう」には信じられない、ということになります。また、ウルシの遺物としての出土がこれまでに知られているのは北海道函館市(旧南茅部町)の埋葬された人物が身につけていた装飾品で、9,000年前と言われていますので、それを遡る草創期に漆があったということは、ウルシは元々日本に自生していて日本の漆利用は日本で独自に発達したものだ、と考えたくなるからです。常識ではとても考えられない、何かの間違いじゃないのかということになりますので、これが間違いないかどうか確かめるまでは「ウルシが草創期からあった」とはあえて言うのをはばかって縄文時代のウルシ材の出土について報告したのです(能城・鈴木2004)。

図9 ウルシと同定された鳥浜貝塚の資料番号TR-202の顕微鏡写真。A-Cは1990年の報告時のプレパラ−ト、D-Fは「再発掘」されたTR-202から新たに作成したプレパラ−トの顕微鏡写真。A,Dは横断面でB,Eはその拡大。C,Fは接線断面。下段は上段に較べ著しく乾燥収縮しているが、詳しく観察すると全く同じ材構造で、再発掘された資料が間違いなくウルシであることが分かる。

鳥浜貝塚の出土材(資料番号TR-202)はウルシであることに間違いないのですから、問題はこれが本当に草創期のものなのか、です。それを確かめる手っ取り早い手段は「放射性炭素年代測定」ですが、1985年、つまり私たちがウルシの材を識別できるようになった2004年から20年も前の発掘品で、しかも漆器や弓など、きちんとした木製品ならともかく、自然木、ただの枝の切れっ端です。そんなものがきちんと何十年も保管してあるわけがない、というのが一般的でしょう。しかし、しかしですよ。福井県立若狭歴史民俗博物館は違っていました。学芸員の鯵本真由美さんと、当時の発掘に携わり、その後この博物館(前身の資料館)の創建時から学芸員を務めておられた網谷克彦氏(現在は福井県陶芸館長)のお二人が収蔵庫を約2年の歳月をかけてくまなく探し回り、遂にこの「切れっ端」を再発掘したのです(図10)。

図10 再発掘された鳥浜貝塚のウルシ自然木(資料番号TR-202)(福井県立若狭歴史博物館蔵)。長さ16cm、太さ1cmほどの枝で、赤矢印の破片で樹種同定用の切片作成と放射性炭素年代測定が行われた。

さすが20年を超える歳月、切れっ端はカラカラに乾燥していました。私たちはそのカラカラになった切れっ端の一部から改めて樹種同定用の切片を切り取り、顕微鏡でみて、それが1990年に「ウルシ属」として報告し、その後ウルシと再同定した資料番号TR-202と同じものであることを確認しました(図9下段)。そして放射性炭素年代測定を行った結果、14C 年代は10,615±30 14C BP(PLD-18382)であり、較正年代では約12,600 cal BP を中心とした年代となり、まさに縄文時代草創期で間違いなかったということが確認されました(鈴木ほか2012)。
12,600年前という年代は、約15,000年前と見積もられる縄文時代の始まりから2,000年以上が経過し、日本列島の人口もゆっくりではあるが徐々に増え、縄文社会が拡大していった時期のようです(図11)。

図11 鳥浜貝塚のウルシの年代と過去5万年の環境及び人文活動の年表(工藤雄一郎氏原画に加筆)。

私は、この時期にウルシの木が鳥浜の地にあった、ということは、縄文人あるいはその祖先によってウルシの木が日本列島に既にもたらされた、と考えるのがもっとも合理的であると考えています。大陸との交流は旧石器時代から既にあったと言われていますので、縄文時代草創期に大陸から文物が渡来していてもおかしくはないと思っています。最古の漆製品が認められるのが9,000年前、この間4,000年近い空白の時間があるのですが、その間に縄文独自の漆文化が生まれ、徐々に発展したということなのでしょうか。縄文時代前期以降になると東日本の縄文遺跡ではウルシの花粉化石や果実が見つかりますので、ウルシの木が遺跡内外で栽培されていて樹液を採って漆製品を生産し、縄文人にとって無くてはならない生活財、そしてきっと精神財となっていたのでしょう。縄文時代晩期に東北地方で栄えた亀ヶ岡文化では漆製品は極めて精緻なつくりで、また量も多く、縄文のムラには当り前のものであったことが窺えます。縄文時代の始まりの頃に日本列島にもたらされたウルシは、ヒトの手によって移動し、ヒトの手によって繁茂し、ヒトに大切に利用されるという歴史を歩んできたということのようです。私達は今でも味噌汁を飲むには漆(のように見える)椀でないとおいしく感じませんし、落ち着きません。縄文の漆の血が私たちにも脈々と受け継がれていることを実感します。

【参考・引用文献】
能城修一・鈴木三男.1990. 福井県鳥浜貝塚から出土した自然木の樹種と森林植生の復元. 金沢大学日本海域研究所報告 22:63-152.
能城修一・鈴木三男. 2004. 日本には縄文時代前期以降ウルシが生育した. 植生史研究12:3-11.
鈴木三男・能城修一・小林和貴・工藤雄一郎・鯵本眞友美・網谷克彦.2012. 鳥浜貝塚遺跡から出土したウルシ材の年代.植生史研究21:67-71.

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プロフィール

みっちゃんのおどろ木、びっ栗、森のくらし

1947年福島県白河市生まれ
東北大学名誉教授


東京大学農学部助手、金沢大学教養部助教授、東北大学理学部助教授、東北大学教授(大学院理学研究科、植物園、学術資源研究公開センター)を歴任。

 専門は植物形態学、古植物学、植生史学、考古植物学。
 遺跡から出土した植物質遺物の形態、組織構造から植物種を同定し、昔の人びとの植物利用についての研究を展開。

 定年後は北海道の東の果てにある標津郡標津町にログハウスを建てて移住。研究を続けながらも大自然の中でトラウト&サーモンフィッシングと様々な北の国の植物や動物にふれる生活を満喫。釣りの腕前はいまひとつ。
 また、三内丸山遺跡発掘調査委員会委員をはじめ、(社)日本植物園協会会長、仙台市杜の都の環境をつくる審議会会長などをつとめ、現在も各地の遺跡調査指導委員会や文化財審議会委員等として活躍中。

 主な著書に、
『植物解剖学入門』(共訳/八坂書房1997)、
『日本人と木の文化』(八坂書房2002)、
『クリの木と縄文人』(同成社2016)、
『ここまでわかった!縄文人の植物利用』(共著/新泉社2014)、
『さらにわかった!縄文人の植物利用』(共著/新泉社2017) などがある。

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