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連載企画

あそこのおかあさん縄文人だから -山田スイッチ-

第32回 点在する縄文人 2011年1月13日

安芸早穂子さんの提案された、Aomori Jomon Timescapeという

縄文時代から続く青森の民俗文化を体験すること……安芸さんの言葉を借りると、「そこに暮らす人々が生業としていることや手遊びにしていることのなかに縄文時代にあったであろう瞬間を見出す」ことは、ひょっとして、ひょっとすると。

わが家の庭でなら、体験可能なのかもしれません。

何故なら、わが家の庭には2007年に私が思いつきで建てた、自家用竪穴式住居があるから。

この竪穴式住居の中でなら、炉で火を焚くことも可能だし、縄文風にきのこを焼いたり、

焼き肉を焼いたりもできるからです。ちゃんと煙抜けの穴も設計してあるので

焼き肉の煙で目がしみることも、そんなにはありません。(多少はあります。)

春には畑でキジが鳴き、

夏には自生する赤スグリを採って食べ、

秋には子ども達を連れて銀杏の実を拾い、

冬には軒先に大根や魚、柿が干してあるわが家。

ひょっとすると、これは一つの縄文体験なのかも…? と思い、

わが家で体験できる縄文風のことを書いてみようかと思うに至りました。

悩める友人が遊びに来たら、「とりあえず皿でも割ってみなよ。

なんかスッキリするかもしれないよ?」と言って

石に皿をぶつけて、割らせてみる私。

「縄文の人達はね、どうやら割るための土器を作って、割っていたのかもしれないのよ。

わざと皿を割っていたかもしれない……っていう、学説が出ているの。

何のためだと思う? それは、割ってみなきゃわからないよね。

ほら、私がお手本をみせてあげる。気合いを込めて、ガッシャーン! よ。」

皿を割ると、大概の人は、ものすごく元気になって帰っていきます。

一体、皿を割るという行為の中に、何があるのか。

そもそも、皿は「やむを得ず割れてしまうもの」であって、「意識的に割るもの」

だという認識は、大きく現代のそれからは外れてしまっています。

その「認識から外れた意識」に入っていくのに、

皿を割ることは必要なのではないか?

と。独自の皿割り論などを構築しているあそこのおかあさんです。

だけど、皿を割ることも。

わざとらしくなってしまったら、

夢は壊れてしまうのです。

当たり前のように実を拾い、当たり前のように縄を綯い、当たり前のように火を起こし、

当たり前のように皿を割らなければ、つまらないと思うのです。

青山テルマ風の帽子

友人に、まだ20代だというのにタヌキの皮をなめせる青年がいます。

彼の呼び名はテンダー。

道路で轢かれたタヌキの皮をなめしてみたり、食べてみたり。

食べたところタヌキの身は堅くて臭かったので、

「つみれにして食べてみました」という、大変素直な剛の者がいまして。

彼は昨年、アメリカ・インディアンの元に火起こしや

野生動物への尾行技術を修得する修行に行き、

日本に帰ってきたら、

なめしたタヌキの毛皮で青山テルマが被っていそうな帽子を

作れるようになっていたのでした。

「わーい! 帽子ができた-!」と喜ぶ、非常に素直でのんきな青年です。

体験できる場所というものは、作らなければ生まれないけども。

それを織りなす人達は、ぱらぱらと点在している。

きっと祭りの時には、そんな人が無数に集まる。

そういう人に触れると、当たり前のことが当たり前でなくなって、

本当に面白いと感じます。こういう人は、文明が進むにつれて、

ふしぎと増えていくような気がするのです。

オマケ

タヌキの皮をなめせるテンダー君(ただ今自転車をこいで神奈川県を出発し、

九州まで到着しました)の活動状況は、こちらをご覧ください。

ヨホホ研究所 http://yohoho.jp/

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プロフィール

山田スイッチ

1976年7月31日生まれ。

しし座のB型。青森県在住コラムニスト。 さまざまな職を経て、コラムニストに。 著書に「しあわせスイッチ」「ブラジルスイッチ」(ぴあ出版刊)、「しあわせ道場」(光文社刊)がある。

趣味は「床を雑巾で拭いて汚れを人に見せて、誉めてもらうこと」。

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