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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第94回 ヒガンバナのある風景 2019年10月15日

秋はヒガンバナ。彼岸に入ると私の住んでいる奈良市の郊外では田んぼの畔がヒガンバナで赤く筋状にそまり、川筋の土手や墓場、地蔵さんの祠のまわりなどにもぽつぽつと小さな群落がある。四国のふるさとでも子供の頃よくなじんだ風景だ。ヒガンバナ自体は美しくエキゾチックな花だが、わたしには、「気味悪い」、「触っちゃいけない」という逆のイメージの方がつよい。ヒガンバナの地方名は1000以上あるそうだが、ユーレイ花、シビト花、キツネバナなどというコワイ名前が多いのは、子供が近づくのを防ごうとするような感じもする。誤って食べるとハラを壊し、時には死に至ることもあるという毒性の強い植物だからである。

日本の民俗学ではヒガンバナは重要な位置を占めている。救荒食(きゅうこうしょく:飢饉や災害などで食物が不足したときに利用する食物)として書かれることが多いが、山村や島の村ではそれ以上の位置を占めていたようだ。みんぱく(国立民族学博物館)が始まったころおこなわれたシンポジウムで聞いた宮本常一さん(民俗学者)の話を思い出す。「ヘンゴダンゴというのがありましてね、ヒガンバナを晒した粉で作るのだが、食べるときは囲炉裏のふちを掴ませておいて団子を咥(くわ)えさせる。力をいれさせ、背中をドンと叩くとのみこむ。それほど食べにくいものだったんですね」と。また、高知県の焼き畑の村、椿山(つばやま)で調査をした福井勝義さん(文化人類学者)は、「障子の糊にシレイ(ヒガンバナのこと)をまぜると虫が食わない」と言ったように、食べるだけでなく、害虫駆除などにも使われており、利用は多岐にわたっていた。日本は第2次世界大戦後の数年、深刻な食糧難に襲われた。そういう時はムラへの人口の還流が起こり、救荒食の利用も盛んになる。それに伴い生半可な知識がひろまって事故につながることがあったのだろう。その警戒感によりヒガンバナのネガテイブなイメージが子供心に刷り込まれたのだと思う。

ヒガンバナは野生植物ではない。原産地は中国。たぶん農耕にともなって日本に入ってきたものである。とくに手入れしなくとも、耕作で破砕された鱗茎(りんけい)から芽が出るので雑草に近い形で生き残ったのだと考えられている。移入の時期についてはさまざまの説がある。中尾佐助さん(植物学者)は照葉樹林文化が伝搬した縄文時代中期とし、保守的な人は稲作の始まった弥生時代という。私は縄文時代のはじまりの頃までさかのぼると考えている。縄文人の主食だったトチやドングリ、イモ類などは、カロリー源のデンプンを取り出すために加熱か水晒しによるアク抜きが必須だった。それを簡単かつ確実にしたのが加熱、つまり土器の発明だったと思うからである。考古学的にはデンプンの同定にはまだ至っていないようだが、ヒガンバナも縄文時代の代表的な主食の1つだった可能性がある。

最近ではヒガンバナが何百万本も咲くという名所ができている。これからは観光客誘致のためにもっと増えていくだろう。観光はこれからの主産業となることは確実だからである。私たちの意識変化が周りの景色まで変えてしまう時代が来たのだと思う。

彼岸花と炭山棚田

彼岸花と炭山棚田(佐賀県伊万里市)
(作者:mahlervv 出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)新しいウィンドウが開きます )

プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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