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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第4回 過大と過小 2011年9月15日

いささか過剰?

・・・縄文時代に対する国民一般の意識が変わる契機となったのは、1994年の青森県・三内丸山遺跡の発掘成果発表であろう。その規模、多彩な出土物が縄文時代に対するイメージを大きく変えた。が、研究者のなかには、「この遺跡の広さや遺構の大きさを眼前に見ると1000人のオーダーの人口を考えることも可能である」(小山 1996)といういささか過剰とも思える表現も見受けられた・・・。

これは松岡資明氏が全集『縄文時代の考古学』が12巻に書いた論文「縄文研究とジャーナリズム」の1節である。ちなみに小山 1996とは『縄文学への道』である。考古学と報道とのかかわり、つねに話題性を追わねばならぬマスコミ人の悩みも吐露した興味深い論文である。考古学の体系本にこのような話題がでて、現役の全国紙記者が執筆したことに時代の流れを感じた。

三内丸山ブームに火がついたのは、直径1mの柱が発見されたこと、それも、明確な尺度で設計された建造物だとわかったからである。それまでは、30~40人の小集団が、狩りや採集をしながら自給自足的に暮らしていたというのが縄文の常識だった。しかし、そんな集団がこれほど大きな集落を作れるだろうか?

大木を伐りだし運ぶ労力、それを構造物として建てる技術や知識をもつ社会とはどんなものものだったのか?専門家をまじえた研究会をひらき、トーテムポールのある北米北西海岸にまで調べに行った。小さな集団ではとても無理だ!

三内丸山の周辺には同時代の遺跡がたくさんある、六本柱の大型掘立柱建物に登ると、平野が広がり、陸奥湾が一望できる。たくさんの舟が港に向かっており、彼方には北海道さえ見える(ような気がする)。遺跡から出るヒスイや石器の素材はそうして運び込まれていたことがわかっている。そうすると1000人オーダーの人口、という仮説を出して当然だと考えた。

この仮説は「過大」なのだろうか?確かに巨大性は人々を驚かせ戸惑わせた。とくに日本の考古学者がそうだったが、ではどんな社会なら可能だったかの説明はなかった。わたしは従来の説明は「過小」にすぎるとおもう。そして過小であることも、同じ罪を犯すのではないだろうか。機会があれば、松岡氏にそのあたりのことを聞いてみたいと思う。

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プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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