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連載企画

縄文のワケ -菊池 正浩-

第3回 「8000人のワケ(その1)」 2009年6月17日

三内丸山遺跡が、これほど話題になり、注目されたワケは?
今回は、そのことについて、考えてみたいと思います。

それは、1994年夏のことでした。
三内丸山遺跡の発端は、野球場の建設でした。1塁側と3塁側のスタジオは、ほぼ完成して、コンクリートに鉄筋が突き出ていました。
そこで、わたしたちが眼にしたのは、野球場のグランド一面に散乱するおびただしい数の
縄文土器でした。あまりの迫力に、鳥肌の立つ思いがしました。
この年の8月上旬にひらかれた現地説明会に2日間で、8000人が詰めかけました。
現地説明会の2日目に現地を訪れた同志社大学名誉教授の森浩一先生が、このように言われました。
「縄文時代に、どうして東北が栄えていたのか。近畿全部の縄文土器よりも、ここ数ブロックのほうが、はるかに多い。力の差・量の差がある。」

その日の模様を当時・朝日新聞青森支社の記者だった阿部俊幸さんの記録から引用させて
いただきます。
「サンダルばきの女性、サッカーボールを抱えた少年、つえをついたお年寄り、・・・・
三内丸山遺跡で94年8月6日に行われた現地説明会には、見学者が次々に訪れた。
この日、青森の最高気温は33度。見学者は汗まみれになりながら縄文人の暮らしに思いをはせた。保存決定後、初めて公開された三内丸山遺跡は、真夏の暑さに負けない市民の
熱気に包まれていた。当初は午前10時スタートの予定だった。午前8時には入口に長蛇
の列ができ始め、急遽1時間ほど繰り上げた。多くの人はカメラを手にしていた。途中で
帰る人はほとんどいなかった。
『夏休みの自由研究にできるね』と話す母と息子、
『遺跡が重要だから、野球場建設をやめたんだよ』と娘に説明する父親―
そんな姿があちこちにあった。
青森市の秋元博善さん(85歳)はつえをつき一人でやってきた。
『柱はよく残っていた。驚いた。そばに住んでいるので、足を運ばないと申し訳ないと思った』と語った。
遠くから駆け付けた学生の姿もあった。神奈川県の手塚新太さん(21歳)は東海大学4年生で考古学が専攻。
『とにかく規模が大きい。こんな遺跡は全国でも例がない。見ているうちに鳥肌がたった』
と話した」(縄文ファイルNO.11「ドキュメント三内丸山遺跡」より)
すばらしいルポだと思います。
あらためて読んでも、15年前の感動が甦ってくるようです。
三内丸山遺跡を支えていたのは、確実に市民の力だったのです。

次回は、この8000人のワケを作家の司馬遼太郎さんがどんなふうに、読み取ったかをご紹介します。

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プロフィール

菊池 正浩

番組プロデューサー。

NPO法人・三内丸山縄文発信の会会員。 1946年生まれ。青森県弘前市出身。早稲田大学卒業。NHK入局後、美術・歴史番組を担当。 1994年NHK青森放送局で大集落発見直後の三内丸山遺跡を紹介。

その後、東京で NHKスペシャル「街道をゆく」「四大文明」 「日本人はるかな旅」「文明の道」などを担当。

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