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連載企画

世界の"世界遺産"から

第32回 熊野古道はそれでもなお、清らかな風が吹いていた。 2011年12月5日

たとえば白神山地の森は、生命のエネルギーにひたれる匂いにあふれている。まるで、心地よいおしゃべりを耳にしているかのように、ブナの森は賑やか。対して和歌山の熊野の森は、透明な静寂に包まれていた。とはいえそこにあるのは無ではなく、目には見えないなにかの存在を確かに感じる。杉の巨木が続く古道の奥に吸い込まれそうになりながら深呼吸すると、硯で墨をすったときにも似た、心がすうっと鎮まる香りが全身に広がった。

今年、和歌山を襲った台風12号は、世界遺産の熊野をはじめ、一帯に甚大なる被害を及ぼした。決壊寸前の土砂ダムをはじめ、ニュースの映像はご記憶にあることだろう。今なお、その傷跡は癒えていない。深い緑色の山々は、あちこちが大きくえぐられたままに。電信柱も隠れてしまうほどあふれた川の岸辺には、痛々しい姿の家屋が。日本一の那智の滝の滝壺は、信じがたいほどのがれきで埋もれていた。長い階段に導かれて詣でる熊野那智大社の境内も、水で覆われたそうだ。台風の翌朝、宮司さんは惨状を伝えるため、腰まで水につかりながら役場を目指して10キロの道のりを歩いたという。しかしながら閉ざされていた道は少しずつ復活し、熊野はまた日常を取り戻しつつある。

樹齢800年、高さ8.5m。古道の入口を守る大門坂夫婦杉にふれながら、ガイドさんのバッグに貼られた「がんばれ! 和歌山」というステッカーが視界に入り、目頭が熱くなった。どうか、がんばりすぎないでください……今年、幾度となく胸をよぎった言葉が蘇る。自然の猛威を前に、呆然としてばかりの1年だった。日本だけではなく、春にご紹介したアユタヤもまた、大規模な洪水の被害に。一方でチュニジアのジャスミン革命を発端とする、人の力が大きな流れを生むできごとにも遭遇できた。明るい未来を夢見たい……熊野の森をゆっくり歩きながらあれこれ振り返りつつ、心のなかの滓が浄化されていくのを実感していた。マッサージよりもエステよりも、太古から続く森は心身を癒してくれるものですね。PCに向かっている今も、あの神々しい景色が蘇る。ああ、でも、白神も再訪したい。あるいは、屋久島……。

というわけで、来年もまた、欲望まみれの世界遺産の旅は続く。途中になったままのエジプトのファラオのお話、和歌山の別の魅力、わたくしが愛する白神山地の不思議など、今年語りきれなかったことを含め、お伝えしたいことはまだまだいっぱい。2012年もおつきあいのほど、よろしくお願いいたします。今年お会いした、すべての方々に感謝をこめつつ……皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。

133mの高さから落下する那智の滝。(写真:(社)和歌山県観光連盟 わかやま喜集館)
杉が見守る熊野古道大門坂。(写真:(社)和歌山県観光連盟 わかやま喜集館)

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プロフィール

山内 史子

ライター、紀行家。1966年生まれ、青森市出身。

日本大学芸術学部を卒業。

英国ペンギン・ブックス社でピーターラビット、くまのプーさんほかプロモーションを担当した後、フリーランスに。

旅、酒、食、漫画、着物などの分野で活動しつつ、美味、美酒を求めて国内外を歩く。これまでに40か国へと旅し、日本を含めて28カ国約80件の世界遺産を訪問。著書に「英国貴族の館に泊まる」(小学館)、「ハリー・ポッターへの旅」「赤毛のアンの島へ」(ともに白泉社)、「ニッポン『酒』の旅」(洋泉社)など。2016年6月に「英国ファンタジーをめぐるロンドン散歩」(小学館)を上梓。

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