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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第7回 女神の旅  2011年12月16日

女神がはじめて姿を現したのは、3万年前のヨーロッパでした。彼女たちは、それから長い長い旅をはじめ、世界の各地に広がっていきました。その一つがシベリア経由の日本列島への道、その終点が縄文時代の土偶だった、そんな物語を考えてみましょう。

イラスト:安芸早穂子

旧石器時代のヒトの姿は、石灰岩や粘土、象牙、角などでつくられました。掌に入るほどの小さな像なので、お守りとして肌身につけていたと考えられます。たくさんの例が知られていますが、なかでも有名なのはオーストリアのヴィレンドルフのヴィー ナス。女性の特徴である乳房、腹、尻などが強調されていて、一見グロテスクですが、あの美しいミロ のヴィーナス像とも共通する要素を持つので、そう呼ばれているのです。

女神を東への旅に導いたのはマンモス・ハンターでした。彼らがマンモスを追ってツンドラ地帯を進んで行ったことは、鋭利な石器やマンモスの骨で作った大きな家屋のある集落からわかります。2万年前ごろにバイカル湖近くのマルタ遺跡などで小さな象牙製の女神像がつくられました。しかし、その形は棒状に近く、ヨーロッパの女神ほどの躍動感やボリューム感がありません。

マンモス・ハンターは12,000年前になるとアメリカ大陸へとわたっていくのですが、女神はそれにはついていかず、別のグループとともに日本列島にやって来ました。旧石器時代の岩戸遺跡のコケシ形や上黒岩岩陰遺跡の礫偶はそれをうかがわせますが、縄文時代に土偶となって大きな変化を見せました。

前期までは、あいかわらず小型で簡素でしたが、中期以降になると三内丸山遺跡、西の前遺跡、棚畑遺跡など大型で神像になって登場します。よく観察すると、胸(小さいけど)、尻を中心とした背面シルエット、ヘソ、性器などの特徴が明らかであることが、もとの要素を十分に残しています。そして、お守りや神像のほかにも、供え物や副葬品、アクセサリーやおもちゃまでその使われ方も多様でした。女神は華麗な変身をとげたといえるでしょう。

女神が何故わたしたちの心に訴えるのかについては、女性に対する私たちの憧れ、子孫繁栄や食料の豊饒の願いだと説明されています。しかし、私としては、限りなく優しい一方、すべてを飲み込む恐ろしい母だという「普遍的無意識」というユングの説に魅力を感じています。

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プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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