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連載企画

縄文探検につれてって!-安芸 早穂子-

第59回 もの覚えと記憶の在処 2013年7月30日

イラスト私くらいの歳になると、「もの忘れ」は友人諸氏のもっぱらの話題で、コントのような間抜けな状況が笑いの種です。しかし、「もの覚え」が話題になることはめったにありません。「もの覚え」という言葉自体が存在するのかも わかりませんが、縄文時代の人々に比して現代の私たちが、どのようにして物事を覚え記憶にしまっているのかを考えると、ちょっとした進化のパラドックスに行き当たる気がします。

どこかに旅したとき、私たちはその風景を携帯写真で見せることが多くなりました。実際、心動かされる風景に出くわしたとき、我々が真っ先にすることは、いち早く携帯を取り出してその小さな箱に記憶させることです。

富士山頂の初日の出を拝みに来て、日の出の瞬間には誰もが我が眼によりも携帯に収めることに躍起な光景を見て、縄文人は随分といぶかしがるでしょうね。
村人が誰も知らない風景を見た縄文人は、それを皆にどのように伝えようとしたのか、そもそもそれらをどのように覚えて帰ったのか。

文字のない世界では、報告や冒険物語について、それが情報として真実か嘘かを考証することに時間を割くのはいささかナンセンスであったと私は思います。
文字にならないことを許された話は、緻密極まるレポートから大風呂敷のホラ話までが身体と感情を総動員して語られ、聞き手によって自在に受け取られ、変幻しながら伝えられ、物語となっていったことでしょう。

姿を変え続ける記憶を許しながら一族にとって大切な申し送りを見つけてはぜい肉を削ぎ落とし、再編が繰り返された祖先の記憶は、バイヤスやフィルターを修正しつつ紡がれ、研ぎ澄まされ、知恵として蓄積され、やがて古老と呼ばれる人の口から、箴言として一族に語られもしたでしょう。

最も心を動かされた時に、ポケットにある小さな箱を取り出して覚えさせる私たちには、そういった知恵の蓄積はもう行われないのでしょうか。

記録と記憶は本質的に違うものですが、今の私たちにあるのは記憶ではなく記録の氾濫です。
学校教育で私たちは主に 文字や数字の記録を記憶することを競い、それが伝えられるときの語り口や、状況の身体的な記憶の部分には全く注意を払いませんでした。身体的情報が欠落した記憶は、リアリティを失い、ただの情報としてクラウドを浮遊している。

私たちが何度もバックアップしてクラウドに預けて、確保したと思っている記録のうち一体どれだけが自分の子ども達に伝えたいことなのかと尋ねられると、全く答えられないくらい、記録された情報は私たちの日常必須レベルを何億倍にも凌駕して氾濫しています。

一方、パーソナルコンピューターというやや大きめの箱に保存した家族の思い出の大切な写真は 実は、息子や娘のPC内で全く共有されていないことがままあり、そもそも親子でその思い出を語り合った記憶はない。
ましてや、一族と呼ぶような親戚関係や集落のネットワークはほぼ死滅しており、そこで共有されるべき歴史や知恵は行き場もなければ来る道もない。

クラウドから神経細胞のように張り巡らされたネットワークを通じて、ポケットの小さな箱に尋ねれば、自分の脳が覚えていなくても大丈夫。
いよいよ無意味な暗記教育から解放されて、もっと思考と身体能力の開発に時間を使うかと思えば、子ども達のその時間はゲームに費やされるようになりました。

柔軟に複雑に、右脳と左脳をフルに使って、記憶を反芻しながら洗練させていった石器時代人、奴隷に仕事をさせて哲学を享受したギリシャ人、そして現代人、さて、進化した人類はいったいどの時代にいたのか?
・・・と考えては 翌日には忘れてしまう物忘れ世代の私の、ひとときの疑問です。

 

追記:「記憶と記録」から「美と文明」を鋭く簡潔に解説する数行を、大きめの箱ネットワークから見つけました。下記リンク是非ご通覧を。
http://www.asahi-net.or.jp/~ng1f-ist/record.html

記録と記憶
スポーツ選手が「記録より記憶に残る選手になりたい」と言ったりしますが、記録と記憶の違いはなんでしょうか。記録というのは明示的情報であり、記録媒体に載せて流通させることができます。そして、明示的情報によって成り立つのが文明であり、紙や電波がそれらの情報を運んでいるわけです。記録が運ばれ再生される時には元の情報を不変に保つのが理想ですが、現実には情報が欠落していき、次第に情報の価値も下がっていきます。

一方、記憶にはで覚えるものと身体で覚えるものがあります。頭の記憶は明示的なので記録に近いと言えます。近代化の過程での学校教育においては頭の記憶が重視されました。近代の学校で重要なのは教科書に書いてある記録を覚えることで、学校の試験は記録媒体としての人間の能力を測るものだと考えられます。そして、それは大脳の能力です。

記録というのは誰かが残した情報であり、言わば二次情報です。一次情報は自分の体験です。自分の体験を頭で覚えるのは記憶ですが、体験というものにはどうしたって身体の記憶も含まれます。つまり、自分の体験は頭で覚え切れないわけです。また、純粋に頭で覚えられるものは記憶ではなく記録であることになります。

大脳の記憶を偏重することは人間を記録媒体として見ることであり、記録媒体の性能というのは「いかに正確に元の情報を再生するか」で決まります。しかし、身体の記憶は暗黙的情報ですから、正確な再生というのは不可能です。そのかわり、明示的情報が欠落していくことによって情報の価値が下がるのではなく、逆に価値が上がっていくこともあります。なぜなら、「美=暗黙的情報/明示的情報」だからです。記憶というのは人間によって運ばれていくうちに洗練されていくものだと考えられます。

イラスト

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プロフィール

安芸 早穂子

大阪府在住 画家、イラストレーター

歴史上(特に縄文時代)の人々の暮らしぶりや祭り、風景などを研究者のイメージにそって絵にする仕事を手がける。また遺跡や博物館で、親子で楽しく体験してもらうためのワークショップや展覧会を開催。こども工作絵画クラブ主宰。
縄文まほろば博展示画、浅間縄文ミュージアム壁画、大阪府立弥生博物館展示画等。

週刊朝日百科日本の歴史「縄文人の家族生活」他、同世界の歴史シリーズ、歴博/毎日新聞社「銅鐸の美」、三省堂考古学事典など。自費出版に「森のスーレイ」、「海の星座」
京都市立芸術大学日本画科卒業
ホームページ 精霊の縄文トリップ www.tkazu.com/saho/

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