ホーム > 連載企画 > 第11回 「縄文人、雪国ライフは?」

このページの本文

連載企画

縄文遊々学-岡田 康博-

第11回 「縄文人、雪国ライフは?」 2009年2月12日

今年はいつもの年に比べて雪が少なく、通勤には比較的楽な毎日が続いています。ただし、これを書いている時点での話しですが。日本は四季の変化が明瞭な地域で、当然、縄文時代にも冬はやって来ました。


三内丸山遺跡雪景色

縄文時代開始当初は温暖な気候でしたが、やがて変動を繰り返しながら寒冷化へ向かい、三内丸山遺跡が最も繁栄した、約4,500年前には現在とあまり変わらず、冬には雪が降ったものと考えられます。当時の生活は、同じ場所で、通年で生活する定住生活であり、雪が降るからといって温暖な地へ季節毎に移動することはありませんでした。また、じっと耐え、活動が休眠するわけでもなく、雪国なりの生活が営まれていました。

まず、秋から冬にかけては狩りの季節です。木々の葉が落ち、遠くまで見通しが効く森は格好の狩り場でした。しかし、降雪地帯のためイノシシはあまり生息せず、シカも少なかったようで、もっぱら獲られたのはノウサギやムササビなどの小動物でした。これらは出土した動物骨の8割を占めています。雪上に残されたノウサギの足跡を手掛かりに巣穴を見つけたことでしょう。マタギの人々が使う、ウサギを捕る際の「ワラダ」が秋田県の遺跡では見つかっています。ワラダはわらで編んだ輪で、それを投げるとワシやタカなどと勘違いして、ウサギが巣穴に逃げ込む習性を利用し、捕まえる際に使われました。

波の穏やかな日には陸奥湾に出かけ、冬の代表的な味覚であるマダラを捕っていたことが、魚骨が出土したことから判っています。食料も秋に大量に捕れたサケ、クリ、クルミ、山菜などを保存食として加工していたので、あまり心配はなかったと思います。縄文人の食料の大半は植物質の食料であり、森の恵みを利用することで十分冬には備えることができたと考えられます。


冬は暖かい土屋根住居

防寒対策はどうでしょう。縄文人の衣服はカラムシなどの植物を利用し編んだもので、その断片も出土しています。それらを重ね着したり、毛皮を着込むことによって寒さを防ぐことができました。民族例に見られる、サケの皮を利用した靴などもあったかもしれません。家は地面を掘り下げて造った半地下式の竪穴住居で、冬は暖かく、夏は涼しいとされ、東北アジアに普遍的に見られるものです。さらに掘った土を屋根に盛った土屋根は防寒上有効であったようです。この土屋根も各地の縄文遺跡で最近確認されています。

真冬に、復元した竪穴住居内で火を焚いたところ室温は20度以上になることが確認されていますので、室内は意外と暖かかったと思います。しかし、火が消えると温度は急激に下がりますので、冬には火が欠かせないものであったと思います。また、大型住居は冬期間の共同住宅との説もあり、複数の家族がまとまって居住した可能性もあります。

秋の豊かな実りに感謝しつつ、疲れを癒すために酒を酌み交わしていたのかもしれません。子ども達にとっても雪上で様々な遊びができる楽しい日々ではなかったでしょうか。雪が降る日は、炉の近くで弓矢や漁具の手入れをしながら、やがて来る春を心待ちにしていたに違いありません。冬があってこそ、春を迎えた喜びが増したことでしょう。

プロフィール

岡田 康博

1957年弘前市生まれ
青森県教育庁文化財保護課長  
少年時代から、考古学者の叔父や歴史を教えていた教員の父親の影響を強く受け、考古学ファンとなる。

1981年弘前大学卒業後、青森県教育庁埋蔵文化財調査センターに入る。県内の遺跡調査の後、1992年から三内丸山遺跡の発掘調査責任者となり、 1995年1月新設された県教育庁文化課(現文化財保護課)三内丸山遺跡対策室に異動、特別史跡三内丸山遺跡の調査、研究、整備、活用を手がける。

2002年4月より、文化庁記念物課文化財調査官となり、2006年4月、県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡対策室長(現三内丸山遺跡保存活用推進室)として県に復帰、2009年4月より現職。

バックナンバー

本文ここまで