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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第41回 地方消滅と地方創生-縄文から見れば(2) 2014年12月12日

地下に埋もれてしまったマチの廃墟を発掘し、それを調査・復元するのが考古学の主たる仕事の一つでもある。

三内丸山遺跡を考えてみたい。1993年の夏、掘りだされた一面の穴ぼこをみたとき、これが石造文化なら世界にひけをとらないのにと悔しかった。広大な敷地にたくさんの住居があり、貯蔵穴、水場、捨て場などの生活のにおいの強い場所の他に、六本柱をはじめとする大型建物、掘立柱、墓列、道路など宗教的で計画性のある遺構がならぶ。出土した土器の量はものすごく多く、ヒスイや石材にみられるぜいたくな交易品も多い。このような特徴は、縄文時代前期から急速に発達し、中期にピークに達した北日本の円筒土器文化圏の遺跡に共通するのだが、これほどの装置を備えたものは他に例を見ない。梅棹忠夫さん(民俗学者・国立民族学博物館初代館長)が都市であると言った所以である。ところが、このマチは縄文時代後期になると突然消えてしまう。何が起こったのだろうか。

原因としては、花粉分析によるクリ林の消滅が示すように、寒冷化や環境悪化があげられているが、ほかに都市型の生活を維持するための技術的キャリング・キャパシティを超えたからであるようだ。しかし、この地域の縄文時代中期から後期への変化ぶりは、三内丸山遺跡という場に限られた現象であって、地域の文化が壊滅したわけではない。むしろ人口は増えているようである。したがって、食糧生産を含む社会システムの大きな変化が起こったと考えるほうがいいと思う。
縄文時代後期の集落は数が増え、未開発だった海抜の高い地や海岸部などに広く拡散する。日常生活のありかたは、土器が小型化し、量も減ることからわかるように、生活形態としては狩猟採集社会への回帰が見られるのである。それに加えて、ヒエ、マメ、ゴボウなどを育てる小規模な畑作が組み込まれたのであろう。

ここで注目すべきは、生活と祭祀の場所の分離が図られたことで、同時代につくられている大湯環状列石(秋田県鹿角市)や小牧野遺跡(青森県青森市)の環状列石や、朝日山遺跡(長崎県雲仙市)のような先祖の祭りのための施設(墓地)がムラとは離れ独立してつくられることがそれを示している。家族を中心に構成されたムラが分散している社会を維持するためには、祭祀の場所に定期的に人々が集まり、情報やモノを交換したり、結婚相手を見つけたりすることが必須の条件であったし、自分たちの伝統を守ることでもあった。縄文人は思い切った生活の簡素化、合理化を自ら断行したのである。そして、司馬遼太郎さんが「北のまほろば」と呼んだ、コメ作に偏りすぎてケガチ(飢饉)に悩まされた藩政以前の北日本の豊かな生活を作りあげていたのである。

地方消滅と地方創生が今、日本政府の課題として大きく取り上げられている。しかし、その具体案はほとんど示されていない。現状を変えることは大きな痛みも伴うはずだ。しかし、はっきりしていることは、創生の中心となるのは人々の意志であることだ。今こそ、私たちは縄文人の知恵と矜恃(きょうじ)に学ぶべきではないだろうか。

発掘調査時の三内丸山遺跡

発掘調査時の三内丸山遺跡

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プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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