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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第45回 縄文少年のころ 2015年5月1日

私のふるさと香川県観音寺市は、瀬戸内海の沿岸にあるちいさな町だ。たまに帰ると、景色を眺めながらブラブラ歩きを楽しむ。この春、河口に近い橋の上で一休みしたとき、潮がひいてあらわれた砂州にたくさんの水鳥(主としてサギらしい)がいたのでおどろいた。子供の頃、これほどの数のトリが集まっていたというのが記憶になかったからだ。真水と塩水がまじる汽水域にはカキ、アサリ、ウミニナ、ヘナタリなどの貝類、エビ、カニ、それにカレイ、チヌ、コチ、ベラ、イナなどの魚がいた。これらは、縄文時代の貝塚の「常連」で、むかしから重要な食資源だったのである。そして、私が子供だった頃も人間が活発に出没して鳥たちの食料を奪っていたのではないかと思った(うっかりすると食われるし)。

河口は子供たちにとっても絶好の遊び場だった。採りやすいのは貝類、もちろん魚もねらっていたが、低学年の小学生にはあまり採れなかった(そのうち腕を上げていくのだが)。ゴーナと呼んでいたウミニナ類のことを懐かしく思い出す。3,4センチくらいの巻貝をあつめて茹で、縫針で蓋から身をとり出す、あるいはとがった尻の部分を5円玉の穴でポキッと欠いて吸って食べたらうまかった。

1940年代から50年代にかけて日本は戦争で大きな打撃を受け、非常な食糧難が続いた。都会では食糧をヤミ市で手に入れるのは普通のことで、配給食糧しか食べなかった生真面目な役人が餓死したという話さえあったが、戦災をうけなかった田舎では野生食の利用がさかんであった。おおげさにいえば縄文時代に逆戻りした感があった。とにかく腹が減って、水辺の食べものはもちろん、野の草や山の果実、なんでも口にした。友人たちとあの頃の話を始めると、「うまかった」だけでなく「よくあんなもの食べたなあ」とか、「いったいあれはなんだったんだ」などと話が止まらなくなる。私たちは集団をつくってわらわらと食料採集に出かけていった。それは子供たちの自衛策だっただけでなく、遊びのなかで食料を集める知恵と技術を覚えるとともに、リーダーとフォロワーの役割という集団のまとめ方を学んでいたのである。

現在の日本は経済的に恵まれ、国際物流システムが安定したこともあって食に苦労することはなくなった。今、あの時代の子供の身になって考えてみると、スーパーやコンビニの棚に目もくらむほどに贅沢な品が並んでいる。しかし、「これでいいだろう」と言われてもどこかしらけた気持ちが残る。子供たちはあの苦難の時代を生きのび、しかも夢を失うことはなかったからだ。長じて私がアボリジニのムラに住み込み、縄文的ともいえる社会の調査に熱中したのは、自然とともに生きたあの頃の生活が刷り込まれていたからだろうと思うのである。

財田川河口 提供(藤田圭造)

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プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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