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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第66回 倭食と和食 日本食文化の2つの層 2017年3月14日

青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡は鳥取市にある弥生時代の大集落である。低湿地にあり大量の遺物(人間の脳まで)が良好な状態で出土したので弥生の地下博物館とよばれている。これまで考古学的には出雲国の島根県がとびぬけて有名だったので、鳥取県はこの遺跡をテコに地域振興を図ろうとしているようだ。その一環として、連続講座の第一回目が平成29年3月18日(土)に「倭人の食卓」と題して開かれる。「倭食から和食へ」という題で基調講演をする山口大学の五島教授から、「倭食」をどう定義するかの相談を受けた(食についてはいつもこちらが聞いているのだが)。私は以下のような意見を述べた。日本には縄文時代からの「粉食」の伝統がある。それを倭食とし、弥生時代に伝わったコメを炊いた「粒食」を和食とすればどうか。そうすれば日本食の歴史が明らかになるだろうと。

弥生時代になって水田稲作が導入されてからコメを粒食する「ご飯」を主食、魚や野菜などの「おかず」を副食と呼びこれが「和食」の基本形となった。しかし、それはコメ作地帯の特異な現象のようだ。小麦やトウモロコシ地帯では、粉を調理して食べている。例えば西洋料理はパンが主食と呼ぶとなんとも変な感じがするのは彼らが食を主食―副食とは分けず、全体として考えているからである。

縄文時代は粉食であった。素材の木の実や根菜類は水にさらしてアク抜きすることが多いし、ヒエ、アワ、ソバなどの雑穀は粒が小さいので摺りつぶして粉にしたほうが効率的である。道具類を見ても石皿や磨石が主体であるのをみれば明らかである。ほかに、調理具として土器が重要なのだが、粉を直接入れるのではなく塊状にして煮たり、蒸したりしたと思う。しかし、それは弥生時代から大きく変化して和食の時代がはじまると考えればどうだろう。弥生時代末期の様子を語る『魏志倭人伝』のヤマタイを中心とする国ではすでにコメを粒状に炊く和食化が進んでいたとしても、その周辺にあった纏ろわぬ倭種の国々は未だ倭食(縄文)の状態にあり、これから変わっていくだろうことは容易に想像できる。もちろん、粉食の伝統はその後も消えていない。ダンゴ、モチ、オヤキ、ホウトウ、ウドンなどが現代も生き続けているのは、粉食が効果的な食資源の利用の仕方であり、常食や饗宴、味覚的にも重要だったからで、むしろ両者が絡み合って和食を発達させていったというほうが妥当だろう。

和食が手ごろなサイズの椀と箸をつかう現代に近い形を整えるのは奈良時代である。その後、室町時代には包丁をつかった料理があらわれ、江戸時代の都市化によるスペシャリスト(専門店)が生まれ、その1つがスシとして結晶して、和食は今や世界遺産にまでなった。しかし、一方で、パンやソーセージをかじり、コーヒーをすすっている現代日本人をみると伝統を捨てて縄文時代に帰ろうとしているのだろうかと考えたりするのである。

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プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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