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連載企画

みっちゃんのおどろ木、びっ栗、森のくらし

第5回 縄文人のカゴつくり(その1) 2017年9月28日

前回は三内丸山遺跡の縄文ポシェットをめぐる顛末をお話ししました。この「小型編みカゴ」は「ヒノキ科の樹皮(恐らくはヒバ)」で精巧に作られたモノでしたが、縄文時代では樹皮で編んだカゴというのは実は決してポピュラーなものではないのです。
私たちは素材を組んだり、編んだりして作られたものを全部ひっくるめて「編組(へんそ)製品」と呼んでいます。「編む」のと「組む」のは手の動かし方の違いですが、それによって出来てきたものは違ったモノになります。カゴなどは底の部分を組み始め、立ち上がったところからヨコ材を編み込んでいくというように1つのモノを作るのに両方の技法が使われることが多いので一括して「編組製品」としているのですが、この言葉は適当で無いという専門家の方もおられますが、とても便利な言葉なので私たちは使っています。

さて、「編組製品」は日本列島にいつからあったのでしょうか?
日本列島に人類が到着したのは今から4〜5万年前くらいと言われていますが、当時は氷河時代のまっただ中、「旧石器時代」です。旧石器人はけものを追って移動生活をしていた、ということになっていますが、いろいろな復元画で見ると彼らが持っているのは毛皮製の袋のようで、カゴ編物ではありません(図1)。実際カゴ編物らしきモノの遺物としての出土は知られていません。

図1 仙台市富沢遺跡の約2万年前のキャンプの復元画(細野修一画、仙台市教育委員会「富沢遺跡-第30次調査報告書-」,1992より)。革袋に石器などの道具を入れて移動生活をしていたと考えられる。

紛れもなく「編組製品」の存在を示す遺物の出土は縄文時代、それも草創期の九州です。種子島空港建設地の発掘調査で出土した土器底の圧痕がそれです。サラダボウルのような形をしたこの隆帯紋式土器の底に、土器を作る時に敷いていた「あみもの」の鋳型が残っていました(図2)。ただ見ただけでは豆粒が並んでいるようにしか見えませんが、古代織物の専門家である尾関清子先生は「縦材に糸を使用し横材は竹とか蔓のようながっちりした素材、それを別の素材(繊維らしい)で絡み巻いたもの」と推定されている(尾関2012)。網代編みなどよりずいぶん複雑な作りのようです。この遺跡から出土した炭化材などの放射性炭素年代測定から暦年補正された値で約13500年前と考えられています(工藤2012)。縄文時代のかなり早い段階から編組製品はあったようです。土器作りのためわざわざ発明したモノではないでしょうから、敷物あるいは入れ物(カゴ)として縄文人に使われ始めていたのでしょう。

図2 「最古」の編組製品の証拠、鹿児島県種子島町三角山I遺跡の土器底の圧痕(『三角山遺跡群(3)』鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(96),2006より)。

このような編組製品の土器底圧痕はそれ以降、全国の遺跡からけっこうたくさん出土するようになります。もちろん、土器を作る時に敷くものは編組製品に限りません。無紋の土器底が多いのですが、木の葉や、様々なものを敷いていたことが知られています。土器の底にある敷物の痕はいわば鋳型(陰像)ですから、直接見ても何がどうなっているのか私たちにはよくわかりません。そこでこの鋳型にシリコン樹脂を流し込み固まらせてから剥がし取りますと「陽像」が得られます(図3)。このような方法を「圧痕レプリカ法」と言って、最近開発されたものです。

図3 鹿児島県南さつま市芝原遺跡の土器底(縄文時代後期前葉)の敷物圧痕(真邉彩氏提供)。同じ遺跡の同じ土器形式の土器に様々な編み方をした敷物が使われていた。

図を見て頂くと分かるように、極めて正確に元の形を反映しているので編み組みの技法ばかりでなく素材の形状、使い方などがよくわかります。時には「節」が見えることがあり、敷物の素材が竹笹であることが判明したりします。
この圧痕レプリカ法,何も土器底の敷物を調べるためだけのものではありません。縄文人は粘土を練って土器を作る時に砂粒や草の繊維など様々な混ぜ物を入れたようです。また、粘土を採ってきて捏ねて成形するまでの間に落ちているタネや実、そこを歩いていた昆虫までもが粘土中に紛れ込むようです。焼き上がってしまえばタネや種子、繊維、昆虫は焼けて無くなってしまいますが、そこにはそれらがあった「空隙」が残ります。この空隙にシリコンを流し込んで鋳型を取り出せば色こそ塗ってありませんがあの有名な◯◯堂のフィギュアに負けないくらいの立体的なレプリカが得られます(図4,5)。そしてなんと、極めつきと言えるのが図6です。土器底の網代編みの敷物の上に、何とコクゾウムシが歩いているではありませんか!きっと、さて土器を作ろうと敷物を台の上に置き、粘土を用意している間にのそのそと這い出てきた虫が、哀れ粘土に取り込まれて焼かれてしまったということなのでしょう。

図4 熊本県山鹿市方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡の土器(3世紀)で見つかったイネ籾圧痕の走査型電子顕微鏡像(小畑弘己氏提供)。土器表面から見るとただのくぼみのようにしか見えないが(B),シリコンを流し込んで鋳型を取り、電子顕微鏡で見ると実に立派なイネ籾であることがわかる(C,D)。拡大すると籾殻表面のイボイボまではっきりと観察できる(E)。

 

図5 三内丸山遺跡の土器片(縄文時代中期)中の3匹のコクゾウムシの圧痕レプリカの走査型電子顕微鏡像(小畑弘己氏提供)。縄文時代にコメの害虫のコクゾウムシがなぜ居たのかは著書(小畑弘己『タネをまく縄文人』吉川弘文館、2016)を読んで頂くとして、レプリカにすると虫の形態がはっきりとわかるのに驚く。コクゾウムシは屋内に住む害虫であることから土器作りは屋内で行われたと推定されている。

 

図6 鹿児島県曽於市宮之迫(みやのさこ)遺跡の縄文時代後期前葉の土器底の網代編み敷物とコクゾウムシ(真邉彩氏提供)。これを観察した真邉さんは「コクゾウムシが必死に敷物にしがみついているみたい」と言ってました。

話がちょっとそれてしまいましたが、さて、強力な武器として登場した圧痕レプリカ法ですが、当然のこととして限界があります。編組製品そのものは植物の茎、蔓、繊維などで作られる「有機質」の物体ですから、通常はバクテリアなどに分解腐朽されて無くなってしまい、遺物として容易には残ることがありません。その点、土器底の「敷物圧痕」は「焼き物」だから現在まで残ったというわけです。ただ、あくまでも鋳型であって植物体そのものでありませんから細胞組織が残っているわけでは無いので、ほとんどのものはそれが何の植物で作られたものかはわかりません。また、土器の「底」と言う限られた平面に残っているものですから、それが大きな敷物であったのか、コースターのように土器底が載るくらいの小さなものであったのか、はたまた、壊れたカゴの一部を切り取って使ったものなのかなどもわかりません。どのような形態の素材をどのように調整してどのように編んだかはかなりわかるものの、どの植物のどの部分を使ったのかなどはやはり「ホンモノ」で検討することになります。

「実体」としての編組製品の一番古い例と考えられるのは滋賀県の粟津湖底(あわづこてい)遺跡の縄文時代早期前半(9600-9300yBP,滋賀県教育委員会1992)の編物の断片です。これは遺物としての保存が悪く残念ながら素材については調べられていません。
そして2003年に日本中の考古学研究者がアッとおどろく「大事件」が起きます。佐賀市の「東名(ひがしみょう)遺跡」の地下に埋もれた貝塚の発見です(図7)。北の背振(せふり)山地の丘陵が佐賀平野に下りた標高5mほどの水田だったところで、洪水調整池造成工事に伴う掘削で海抜-4〜-1mの高さのところに6つもの貝塚があることがわかったのです。「低湿地貝塚」、それはすべての考古学研究者にとってはもちろんのことなのですが、私たち考古植物学の研究者にとっても得がたい「宝の山」なのです。
福井県の鳥浜貝塚も低湿地貝塚で、そこから実に多くの発見がなされ、縄文時代の「常識」をいくつも塗り変えてきました。ここ、東名遺跡もまさに常識を覆す「驚天動地」の発見が相次ぎました。その中で、これが一番(と私が勝手に思っている)は数百個体という大量の編みカゴの出土です(図8)。遺跡を発掘して編組製品が出土するということ事態かなり希にしかないもので、出土しても1〜数点、破片も含めてせいぜい10点程度、というのがこれまでの「常識」です。それが数百もということは、これはとても尋常なことではありません。なぜそんな尋常でないことがこの遺跡で起きたのかは考古学者に任せて、私たちは砂糖に群がる蟻の如く出土した編組製品に群がって徹底した調査を開始しました。実はこれは貝塚発見から14年も経った今でも続いているのですが、その中身については次回をお楽しみに、ということで。

なお、熊本大学の小畑弘己先生と鹿児島県埋蔵文化財センターの真邉彩さんには「秘蔵の写真」をお貸し頂きました。感謝、感謝です。

図7 佐賀市東名(ひがしみょう)遺跡の位置(佐賀市教育委員会2016より)。北に背振(せふり)山地がある。空色の塗り潰しは縄文海進時の海。弥生時代の巨大集落「吉野ヶ里遺跡」は東北東約7kmにある。

 

図8 東名遺跡から出土した編みカゴ(佐賀市教育委員会2009より)。一つの土坑から3つの大形カゴが折り重なって出土した。

 

引用・参考文献
尾関清子2012『縄文の布』雄山閣,東京.
工藤雄一郎2012『旧石器・縄文時代の環境文化史』新泉社,東京.
佐賀市教育委員会2009『東名遺跡群Ⅱ』第5分冊.
佐賀市教育委員会2016『東名遺跡群IV』東名遺跡群総括報告書- 第1分冊.
滋賀県教育委員会1992『粟津湖底遺跡』

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プロフィール

みっちゃんのおどろ木、びっ栗、森のくらし

1947年福島県白河市生まれ
東北大学名誉教授


東京大学農学部助手、金沢大学教養部助教授、東北大学理学部助教授、東北大学教授(大学院理学研究科、植物園、学術資源研究公開センター)を歴任。

 専門は植物形態学、古植物学、植生史学、考古植物学。
 遺跡から出土した植物質遺物の形態、組織構造から植物種を同定し、昔の人びとの植物利用についての研究を展開。

 定年後は北海道の東の果てにある標津郡標津町にログハウスを建てて移住。研究を続けながらも大自然の中でトラウト&サーモンフィッシングと様々な北の国の植物や動物にふれる生活を満喫。釣りの腕前はいまひとつ。
 また、三内丸山遺跡発掘調査委員会委員をはじめ、(社)日本植物園協会会長、仙台市杜の都の環境をつくる審議会会長などをつとめ、現在も各地の遺跡調査指導委員会や文化財審議会委員等として活躍中。

 主な著書に、
『植物解剖学入門』(共訳/八坂書房1997)、
『日本人と木の文化』(八坂書房2002)、
『クリの木と縄文人』(同成社2016)、
『ここまでわかった!縄文人の植物利用』(共著/新泉社2014)、
『さらにわかった!縄文人の植物利用』(共著/新泉社2017) などがある。

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