1990年代の中頃はしょっちゅう青森に行っていた。委員会、講演会、イベントがいっぱいあったからだ。そのため、夜は関係者と居酒屋で飲んで気炎を上げることになるのだが、どうすれば人々に縄文文化に馴染んでもらえるかという戦略会議の様子を呈していた。そこで縄文人はどんな言葉をしゃべっていたのか、「北国の春」(作詞:いではく/作曲:遠藤実/歌:千昌夫)の縄文語訳をつくるのはどうだ、という話題がでた。この歌は日本だけでなくアジアにひろがっている歌だし、当時テレビで「ドントポッチイ」といいながら男たちが竪穴住居のまわりを歩く、使い捨てカイロのCMが評判だったこともある。あの言葉はたしか古代日本語を復元した専門的なものだったはずだ。
縄文時代は人類史としてみればごく最近のことで、彼らが言葉をしゃべり、唄い、踊っていたことは確実である。しかし、言葉を復元することは大変難儀である。ところが、縄文時代の言葉については「日本語の起源」とも関わるせいか、驚くほどたくさんの説が出されているのである。曰く、ウラル・アルタイ、朝鮮、中国、オーストロネシア、アイヌ、ドラビダ、レプチャ、ギリシャ、ヘブライ語などなど。ぶっ飛んだ説もあるが、それなりに論者には熱があって、発表当時は大反響を呼んだものもある。こんな混沌たる状況にどう手をつければいいのかと考えていたら、みんぱく(国立民族学博物館)の同僚だった崎山理さん(人類学者、言語学者)のことが頭に浮かんできた。
言語学の研究史を簡単にまとめると、まず机上で理論的に詰める伝統的な方法が主流にあり、それに対して、近年は考古学や文化人類学のフィールド調査によって分析を進める研究がさかんになってきているといえる。崎山さんはオセアニアの島々の言葉を調べ、とくに単語が日本語と共通するものが相当あることに注目して日本語のルーツの1つはオーストロネシア諸語であると言っていた。そこで、「北国の春」の縄文語訳をお願いしたところあっさり引き受けてくれた。いかにも実践を尊ぶみんぱく研究者らしい。この試みはけっこう反響があり、青森だけではなく、東京のテレビや福井県の三方町(現若狭町)、吹田市など、各地のイベントで唄われた。私は言い出しっぺなので、最初にラジオ青森(RAB)の公開番組で唄うことになった。三内丸山遺跡の整理室に帰ってきたら岡田さんがニャッと笑って「ご苦労様」と言ったのを聞いて、「ああ、これで学者としては滅びた」と気が萎えた(歌手になればと言った人もあったのだけれど)。
最近、分子人類学とよばれる新しい分野がうまれたことに私は注目している。分子人類学は日本を含む大陸にいた(移動した)ヒト集団の在り方をDNA分析から明らかにすることを目指している。もちろん考古学や文化人類学の資料も積極的に援用しているが、とくに考古学はその時代的な変化をよりこまかく解明することに貢献をするはずである。それに対応した広い視点に立つ論文も出始めている。言葉はモノとして残らないので、考古学者にとっては苦手な話題ではあるがが、このような学際的研究をもっと推し進めるべきだと考えている。
余談になるが、最近ではオーストロネシア語族の影響は縄文時代後期からだという意見がつよくなっている。すると、この唄は三内丸山人ではなく、もっと後の亀ヶ岡人が歌ったことになるのだが。
(文献)崎山理 2017『ある言語学者の回顧録」風詠社

つがる市縄文住居展示資料館カルコでは、縄文人が古代の言葉で来館者を出迎える。