文化人類学者はフィールド調査ではムラの人と「目線」を合わせることが大切である、客観的であろうとして見下ろすようではいいものはできないと教えられたものだ。東海林さだおさんは『丸かじり』シリーズをはじめとしてたくさんの食物の本を書いているが、おもしろいのは食べ物をムラ人と同様に扱っていることである。
例えば(以下自由に引用)カボチャは「その不様な姿態。意味もなく大きくなってしまいその巨体を持て余して恥じ入っている様子。・・・その皮膚の厚さ、硬さ。野太い声(聞いたことないけど)。息づかいの荒さ。見た目の暑苦しさ。とにかくでかくてごつい。いかつくて見ぐるしい」と述べる。ところが料理となると「大物です。どっしりしてる、睨みが効く。煮物か天ぷらぐらいしかないけれどそれでいい」と。
それがダイコンについては「(大根おろしから煮物までいろいろあるので)こうしてますという方針が感じられない。八百屋の店先で三食昼寝を決め込んでいるオバタリアンみたい・・・色さえ付けるのを忘れてしまって図体だけが大きく、どう見ても頭がよさそうには見えない」といった具合である。まるでみんなと褒めたり貶したり、おしゃべりを楽しんでいる感じ。食べ物と目線を合わせる東海林さんが優れたエスノグラファー(民族学者)であることがわかる。(以上、自由に引用)
そんな目で見ると、私はオオムギさんに同情を禁じ得ない。世界的に見れば名家の出、エジプト文明では主食であるとともにビールの素材としても大活躍した。その伝統はドイツを中心とするヨーロッパから北米社会に受け継がれて今もゆるぎない。またチベットでは主食として欠かすことができない大物である。
ところが日本ではどうもパッとしない。縄文時代の終わり頃に中東からはるばるやってきて、その後全国で広く利用されたのに、ヒエ、アワ、キビなどと同じく雑穀としてあつかわれ、名前まで、ただのムギとしてコムギやハトムギと一括されてしまった。まして、仲間のコムギがパン、うどん、ダンゴ、菓子類にまで手をひろげて成功しているのに、いつまでたってもコメの代用品とみなされ、声望を集めることができなかった。オオムギさんは残念がっているはずだ。
そうなったのは日本人が律令制時代からつい最近まで、食の主体はコメであると考えてきたからである。ところがそれは上層階級や都市民に偏っていて、農民や貧民は雑穀とくにオオムギに頼っていたのである。それは江戸時代には穀類の産高としてコメについで多かったことから分かる。栄養的にも決して劣るわけではないし。この日本人のコメにたいする信仰に似た思いは戦後の食糧難の時代にかえって激しくなり、私たちの世代はコメだけの飯「銀シャリ」があこがれの的であった。もっとも今の若い世代の食は高栄養化と多様化によって大きく変わり、弥生時代以降2000年におよぶコメ信仰も姿を変えつつある気がして複雑な気持ちがする。
(参考文献)
五島淑子 2015『江戸の食に学ぶ』 臨川書店
佐藤洋一郎・加藤鎌司編著 2010『麦の自然史』北海道大学出版会
東海林さだお2003『東海林さだおの味わい方』 筑摩書房

オオムギさんの活躍による世界のビール・地ビール
(「ビールが村にやってきた!」吹田市立博物館特別展用収集資料2008年)