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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第79回 縄文食に帰る 2018年6月8日

アルタミラ(スペイン)やラスコー(フランス)の洞窟に描かれたマンモスやバイソンなど大型獣の壁画に見るとおり、旧石器時代は肉食だったというイメージが強い。

これまでの考古学者の意見の中には、「肉食をやめて食べ物がまずくなった」、「ネアンデルタール人は肉ばかり食べていてひどい痛風に悩まされたのであんな姿勢に復元された」、というのがあった(いかにも現代の西洋人らしい意見なのだが)。味はともかく、植物食ばかりでは動物性タンパク質が不足して成長や体力の劣化につながったことは十分考えられる。

日本はどうだったのだろう。大型獣は氷河時代が終わったあとは生き残ることができなかった。だから、縄文時代には植物食が中心になるのだが、もともと雑食である人類として当然の姿だったと言えるだろう。
縄文人が土器を早くから手にしたことはおおきかった。植物食はうまくいけば安定したエネルギー量を得ることができるので、その管理・育成(栽培)へと向かったことは世界的に共通している。それは縄文時代も同様で、始まりの段階から多くの証拠があがっている。そして自然条件に恵まれた日本列島では、小・中型獣や鳥や魚や貝をこまめに集めてバランスのよい食生活をおくるようになったのである。

この状況が変わったのは7世紀からで、天武天皇の肉食禁止令(675年)がはじめだった。コメという栄養価の高い食品が普及したことと、殺生を嫌う仏教思想の影響が強かったことが主な理由だったと考えられる。しかし、水田稲作の普及が遅れた東日本や貧しい庶民レベルの食生活のなかでは一般化したとは言い難い。それは、江戸時代の徳川綱吉の「生類憐み令」まで禁令が繰り返し出されていたことから明らかである。それでも肉食は日本人の食卓から次第に消えていった。その結果、日本人の体力低下(目安として身長がつかわれることが多い)がおこる。日本人の身長は縄文時代以来の肉食に加えてコメをとりいれた食生活をしていた弥生時代をピークに江戸時代の終わりまで低下し続けたのである。

肉類(とくに四つ足獣)が再び庶民の食卓にあらわれるようになるのは明治に入ってからだった。篠田鉱造『明治百話』(岩波文庫)に面白い話がある。「幕末までは牛や豚の肉は臭いといってみんな敬遠していた。屋内で食べるときはふすまや仏壇や神棚に目張りをしたり、野外で食べても鍋や食器を何日もかけて洗ったものだ。ところが、最近では若い書生どもが獣鍋を好んで食うようになり、それがいつの間にか女たちにまでおよんで肉鍋屋の数が増えどれも大繁盛だ」という記事である。
そのきっかけとなったのは西洋人が牛をよく食べたこと、そして、将軍となった一橋慶喜(徳川慶喜)が豚を好んで食べたのでブタ一さまと呼ばれたように、上流階級からの影響であったらしい。それに「文明開化・富国強兵」が政府を動かして食習慣を一挙にかえてしまったようだ。

しかし、肉食を忌避する伝統はその後も残って肉が魚の消費量を上回るのは1960年代の高度成長期になってからで、この頃から日本人の体力は目に見えて向上している。もし今のスーパーに並ぶ肉、ミルク、バターなどの食品を見ると昔の人は目をまわすに違いない。日本人の食生活は再び縄文時代に帰ったと言っていいのかもしれない。

日本人の身長の変化
(小山修三1982「米と日本人」『週刊朝日百科
世界のたべもの』101号:8
※平本嘉助1981「骨からみた日本人の身長の移り変わり」
『考古学ジャーナル』197:24-28より作成)

プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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