私がオーストラリアの調査に行ったのは縄文人(のような人たち)と暮らしてみたかったからだ。人類最初の経済段階である狩猟採集社会は1960年代にはまだけっこう残っていた。なかでも、オーストラリア・アボリジニ社会はその代表的なものだった。1980年から入ったコパンガのムラは40人くらいの典型的なホルドとよばれる集団で、四輪駆動車、無線電話、鉄砲などの機器や紅茶、砂糖、小麦粉、缶詰などを取り入れながらも昔ながらの生活を送っていた。
彼らの日常生活は食料を獲得することが中心で、男はカンガルーやツルを狩り、女性は貝や植物の採集をする。そして、最大のご馳走である渡り鳥(カササギガン)が集まるときには、近隣のムラと協力して、お祭りに近い大掛かりな饗宴のキャンプをはる。食料集めから食べ終えるまで、使用する道具の種類はごく少なく、(鉄砲を別にすれば)考古学でわかっている旧石器時代の道具の枠を出ないのである。それは施設全体に言えることで、住居は雨や日差しをしのぐだけのもの、衣類も簡単であることからもわかる通り原始的である。それでも、カやアブや暑さ寒さ、時には空腹にも悩まされながら、自由で楽しい研究生活を送ることができた。
物質文化が簡素であれば精神文化もそうだと私たちは考えがちである。ところがそうではないのだ。アボリジニ社会の親族関係の複雑さは欧米人(日本も入れていいだろう)には理解しがたいがそれが魅力でもあった。そもそも親族組織とは日常の生活を律する制度(思想)である。私たちは自分のオヤ、キョウダイ、コドモを中心として人間をまとめ、それを何代にもわたって連ねて家系図をつくる。ところが、彼らのものは人間をまず2つに分け(半族という)、さらにそれを世代によって分割して8つのカテゴリーにおしこめてしまうのである(図)。つまり、家系にみられるような時間の要素がない。ここでわたしたちは混乱してしまう。私も職業柄、何度もそれについて講義をしたものだが、実を言うと、よく理解していないと言わねばならない(いまなら言うか?)。
私はボスの息子とされ、ボスの娘のベティとは「きょうだい」になった。すると、口をきいてはいけない、どんな要求にも応えなければならない、そし彼女の息子には献身的に尽くさねばならない、だから食べ物でも、サングラスでもぶったくられても文句は言えない。とくに残念なのは「いいなー」と思う女性がいても、近寄ってちゃらちゃら話すことができないのだ。むかし、白人の男が、一生愛しますのでこの子を嫁にくださいと親に言ったらヤリで追っ払われたという話を聞いたことがある。

ふたつの世界の見取り図(杉藤重信1992)
民族学者のレヴィ=ストロース博士は、親族組織とは近親相関を防ぐという基本条件のほかに、他のグループとの付き合いを深めたり排除したりするために使うものだったと説明している。アボリジニ社会で私が経験したこの複雑な理論と構成は、物質文化のシンプルさと比べると、心のふしぎさと奥深さを感じるのである。それはながらく人類学として努力を積み重ねてきたアカデミーにしても、まだまだその謎を解くには至らないものであることだと思う。
考古学は基本的にモノの研究である。最近の動きを見ると、考古学というアカデミーの枠からみると受け入れがたいという意見も多々ある。しかし、私のアボリジニ社会の調査での経験からみて専門家の知識やイメージにも限界がある。別の言葉で言えばどんな奇抜な意見であっても一度は耳を傾けてみたいと思うようになった。

コパンガのムラにて(オーストラリア1982)
(文献)杉藤重信 1992「分類する人びと ― 半族の思想」、『オーストラリア・アボリジニ:狩人と精霊の5万年』(国立民族学博物館 特別展 展覧会カタログ)、産經新聞大阪本社。