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連載企画

北の縄文、海と火山と草木と人と

第3回 われは海の子、縄文海進 2018年8月30日

縄文時代が始まったころ、海は少しずつ変化を遂げていた。地球の温暖化によって、氷河は少しずつ融け、海面が上昇を始めていたのだ。関東平野での調査から、寒冷な氷期では最大で現在より100メートル以上も低かった海面は、約1万1千年前にはそこから50~60メートル上昇し、約9,000年前にはさらに20メートルくらい上昇したことがわかっている。その後も上昇を続け、6,000年前には現在より高くなったと考えられている。単純に計算すれば2,000年間に20メートルくらい上昇したことになる。このような海面の上昇は、内陸への海の進入をもたらした。これが海進だ。この海進は縄文時代を特徴づける大きな出来事であったため、日本では縄文海進と呼ばれてきた。

地球の急激な温暖化は陸域の生態系をブナなどからなる落葉広葉樹林へと変えたが、それはまた海域の生態系をも大きく変えた。海面が低い氷期の海岸線は直線的であったが、縄文海進によって、海は平野や河川の流域に進入し、リアス海岸を作り出し、たくさんの内海・内湾を形成した。瀬戸内海や東京湾は縄文海進によってできた。ホタテ養殖の盛んな青森湾も縄文海進によってできた大きな内湾だ。縄文海進がなければ青森湾はできなかったのだ。

縄文時代が始まったころ、縄文海進とともに起こった大きなできごとがある。内海や内湾の形成とともに、黒潮の勢力が大きくなって、八戸沖や道南の噴火湾にまで及んだ。黒潮の分流である対馬暖流が日本海に流入し、サハリン南部にまで及んだ。その支流が津軽海峡や宗谷海峡を東進して八戸沖やオホーツクにまで及んだ。海流は回遊魚のベルトコンベアーである。魚だけではない、ハマグリなどの貝も移動する。黒潮や対馬暖流はカツオやブリ、イカ・タコ類など、数え上げればきりがない多種多様な魚貝類を運んだのだ。

北の縄文の海は、暖流と寒流が運んでくる魚貝類の集会場のようなものであり、内湾は干潟と化して魚貝類の生産性がもっとも高い生態系をもたらしたのだ。縄文人は海と向き合わざるを得なかった。自ずと海の子になった。これをわたしたちは縄文人の海洋適応と呼んでいる。海進が急激となった約1万年前には、卓越した漁労文化を育んだに違いない。残念ながら、そのころの貝塚をともなう遺跡は知られていない。なぜなら、当時の沿岸の集落は現在の海面下に埋没しているはずだからだ。一方では、失われてしまった縄文集落も数多くあるはずだ。たとえば、八戸・上北地域では、縄文海進の最盛期とその後の貝塚をともなう集落が見られない。それは皮肉にも海の浸食によって失われてしまったのだ。縄文海進のころの陸域はもっと海側に広がっていたのだ。貝塚をともなう縄文集落の遺跡は、水没や浸食から免れた貴重な存在なのだ。

北の縄文は、縄文人と海との関係性のなかに、これまで見えなかった秘められた文化を抱えていそうである。現在の地形・地質・生物といった地生態系や生物生態系の中で縄文人を考えてはならない。縄文人は現代とは大きく異なる環境に見舞われて、その人や取り巻く人々の生きざまを形成していったに違いない。縄文人の心、生きざまを知るにはもっと縄文の環境のことを知り、愛さなくてはならないと思う昨今ではある。

氷期から間氷期への急激な温暖化による海陸分布と海流の変化(大場忠道(1994)を書き改める)
1:2万年前、2:1万年前、3:6,000年前
温暖化による海面上昇によって海流は大きく変化し、
黒潮・対馬暖流が日本列島を洗うように流れるようになった。
北の縄文は暖流と寒流がぶつかり合う好適な漁場となった。

 

約2万8千年前(20,000放射性炭素年代)の海岸線、陸奥湾は陸地、もちろん青森湾はまだない。

 

約1万5千年前(13,000放射性炭素年代)の海岸線、縄文時代の開始期、縄文海進が陸奥湾を作る。

 

約8,000年前(7,200放射性炭素年代)の海岸線、縄文海進によって津軽平野や小川原湖も内湾となる。

プロフィール

北の縄文、海と火山と草木と人と

1952年滋賀県生まれ。国立歴史民俗博物館教授、東京大学大学院教授を歴任。東京大学名誉教授。
理学博士(大阪市立大学)。専門は地質学、植物学、生態学だったが、いまは無く、あえていえば歴史景観生態学を創出しつつある。

世界ではさまざまな巨大災害が起こっている。巨大噴火、巨大地震、これらは私にとっては環境変動の一つ。巨大なものばかりが注目されるが、ささやかなこともたくさん起こっている。およそ3万年前から現在までの、大小さまざまな環境変動が人社会や生態系にどのように働きかけ、どのような応答があったのか。そんなことを研究している。最近では、独自の技法を開発しながら、その様子をイラストや絵にしている。一方では、縄文時代の集落生態系の復原に取り組み、色鉛筆画にしつつある。

著書は中途半端なものばかりで薦められないが、まじめなものに編著『考古学と植物学』(同成社2000)がある。最近、『隙間を生きる 植生史から生態系史へ』(ぷねうま舎、非買本)を発行。可能な範囲で差し上げる。

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