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連載企画

北の縄文、海と火山と草木と人と

第4回 縄文海進ウォッチング、八戸編 2018年9月29日

縄文海進が地球の急激な温暖化と海面上昇によってもたらされ、現在は平野になっているところが内湾であったこと、当時の縄文人はこれに寄り添うように集落を形成し、海洋適応していたことを、太平洋側の八戸で確かめてみよう。

八戸城跡のある高台から北側の八戸平野を見下ろしてみる。べったりと市街地が広がっていて、右手には太平洋が、左手には遠くに八戸駅を通る東北新幹線が見える。この建物が集中する平坦面は、縄文海進のピーク時では内湾だったのだ。当時の内湾を「古八戸湾」と名付けたのは、青森県が誇る考古学者の故市川金丸さんだった。貝塚の分布と貝の種類から縄文海進を想定したのだ。よく知られている貝塚を伴う遺跡といえば、赤御堂(あかみどう)遺跡、長七谷地(ちょうしちやち)貝塚、日ケ久保貝塚(おいらせ町)があげられる。高精度年代測定の結果、8,200~7,900年前の縄文時代早期後半の集落であることがわかった。

八戸南方上空から北方を見下ろした鳥瞰図を試みに描いてみた。古八戸湾は南から流下する新井田川流域に分かれているので、あえて古新井田湾と呼ぶことにした。この内湾の奥には赤御堂遺跡が寄り添っている。長七谷地貝塚とそれに向き合う日ケ久保貝塚は、古八戸湾とは独立した内湾に寄り添っているので、古奥入瀬湾と呼ぶことにした。北の方に目をやると、現在の小川原湖を拡大したような内湾が見える。当時は海とつながった内湾であり、ずっと奥まで樹枝状に海が入り込んでいた。この内湾は古小川原湾と呼ばれている。この北にも入江や内湾がたくさんある。

図1 八戸から下北にかけての縄文海進期の鳥瞰図
南から古新井田湾・古八戸湾、古奥入瀬湾、古小川原湾が続く。
内陸に深く入り込み、それぞれ独自の内湾を形成する。
当時は陸が海側に張り出していたが、海の浸食によって現在では直線的な海岸になっている。
主要な集落は内湾に寄り添っている。

これくらい広い範囲で鳥瞰してみると、八戸地域と北の小川原湖地域での違いに気づく。まず、古八戸湾や古奥入瀬湾は現存しない。平野となって、工場・市街地や水田地帯となっている。それに対して古小川原湾は小川原湖となり、北方の入り江や内湾は湖沼となって残っている。また、古小川原湾周辺とその北側には縄文貝塚をもつ集落が多く、早期だけではなく、後期から晩期まで存続している。その理由は、南の方は地盤が隆起して、北の方が逆に沈み込んでいるからだ。傾動運動という地盤の変動が起こっているのだ。小川原湖地域が沈み込んでいるから、水域が維持されるわけだ。もう一つ重要な理由がある。5,900年前、十和田火山の巨大噴火があり、そのときに噴出した大量の火山灰が風下側であり主要河川の下流域である八戸地域の内湾を埋め立てたのだ。南端の古新井田湾、そして火山灰がとても少なかった古小川原湾一帯は埋め立てられずにすんだ。八戸平野の地下を掘ると、二次災害を引き起こした火山灰層が厚く堆積しているのに対して、小川原湖周辺には二次災害の痕跡は見られない。

こんなふうに一つの地域でも環境の移り変わりを詳細に見てみると、縄文海進はこれまで考えられてきたような単純で一様なものではなかったことがわかる。何よりも重要なことは、急速に進行した縄文海進に縄文人が海洋適応して海に寄り添った集落を形成したこと、海洋資源に大いに依存した生業をしていたこと、前期後半からあとでは、十和田火山の巨大噴火と地盤の傾動運動の影響を受けて、徐々に集落・居住形態に変化が起こったことであろう。気候変動だけにしか目がいかない環境変動論は、大きな重要なものを見落としているように思われる。

図2 八戸地域の縄文海進による内湾形成
縄文海進は奥深く進入し内湾を形成したが、
その後、5,900年前の十和田火山の巨大噴火による火山灰に埋め立てられて平野となった。
是川縄文館企画展図録から。

 

図3 古奥入瀬湾の景観と長七谷地・日ケ久保集落の活動圏

 

 

図4 古八戸湾をめぐる海陸分布の変遷
縄文海進に対して十和田火山の火山噴火による火山灰の堆積・流下が海進を一時的に後退させた。
是川縄文館企画展図録から。

プロフィール

北の縄文、海と火山と草木と人と

1952年滋賀県生まれ。国立歴史民俗博物館教授、東京大学大学院教授を歴任。東京大学名誉教授。
理学博士(大阪市立大学)。専門は地質学、植物学、生態学だったが、いまは無く、あえていえば歴史景観生態学を創出しつつある。

世界ではさまざまな巨大災害が起こっている。巨大噴火、巨大地震、これらは私にとっては環境変動の一つ。巨大なものばかりが注目されるが、ささやかなこともたくさん起こっている。およそ3万年前から現在までの、大小さまざまな環境変動が人社会や生態系にどのように働きかけ、どのような応答があったのか。そんなことを研究している。最近では、独自の技法を開発しながら、その様子をイラストや絵にしている。一方では、縄文時代の集落生態系の復原に取り組み、色鉛筆画にしつつある。

著書は中途半端なものばかりで薦められないが、まじめなものに編著『考古学と植物学』(同成社2000)がある。最近、『隙間を生きる 植生史から生態系史へ』(ぷねうま舎、非買本)を発行。可能な範囲で差し上げる。

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