縄文海進は海洋資源の豊かな内湾・内海を形成し、縄文人の海洋適応は一気に促進されたに違いない。魚貝類の食文化もにぎやかなものとなっただろう。ところが、その隆盛の真っただ中、およそ5,900年前、再び、十和田火山が想像を絶する巨大噴火を起こし、東北北部を中心に生態系に壊滅的打撃をあたえた。「中掫(ちゅうせり)テフラ」と呼ばれる大量の火山灰が東麓に覆いかぶさり、河川を流れ下って古奥入瀬湾など内湾を埋め立てた。そして、その直後、東北北部から北海道南部にかけて、突然、円筒土器文化が出現した。
私が十和田火山の調査を始めたのは1975年だった。4年くらい八甲田山や十和田火山と周辺域を歩き回っていたが、「八戸テフラ」と「中掫テフラ」の二つの火山灰はどこででも確かめることのできる重要な火山灰であることが分かっていた。「八戸テフラ」は第1回で取り上げた1万5千年前の巨大噴火によるもので、けた違いに多い噴出物のため、十和田火山はその後に大規模な陥没を起こして巨大なカルデラが形成された。それが今の十和田湖だ。もう一つの「中掫テフラ」の噴火は、最近になっておよそ5,900年前に起こったことが明確になってきた。そしてまた、東北北部の生態系を一変させるような大規模な噴火で、最近では東北地方だけではなく中部地方まで火山灰が飛来していたことが分かってきた。噴火様式は違うものの、「中掫テフラ」の噴火は「八戸テフラ」と同様に、巨大噴火と呼ぶべきであると主張してきた。

図1 種々のテフラ噴火の様式と形成される地形・テフラ層
(町田 洋1982「縄文文化の研究1、縄文人とその環境」から引用)
(1)ストロンボリアン噴火 (2)水蒸気噴火 (3)サブプリニアンおよびブルカニアン噴火 (4)プリニアン噴火 (5)大規模プリニアン、巨大火砕流、水蒸気プリニアン噴火
十和田火山の「八戸テフラ」噴火は(5)に、「中掫テフラ」噴火は(4)にあたる。いずれも巨大噴火である。現在の富士山は(3)の成層火山を作るブルカニアン噴火を継続している。
十和田火山に比較してはるかに小規模。
三内丸山遺跡を調査するようになって、いつも気になっていたのが「中掫テフラ」だった。三内丸山遺跡の土器型式の年代測定を進めるうちに、いちばん古い円筒土器である円筒下層a式土器の年代と「中掫テフラ」の年代がほぼ一致したから、ひょっとすると十和田火山の巨大噴火が円筒土器文化の形成を誘導したのではないかという考えに至った。この仮説を検証するには、まず、円筒土器文化の出現と十和田火山の巨大噴火との関係を明確にしなければならない。結局、三内丸山遺跡特別研究というプロジェクトで、考古学、年代測定学、古環境学、古植物学、古生態学などの研究者が集まり、5年以上の歳月をかけて両者の関係を調べた。その結果、円筒土器文化は巨大噴火の直後に形成されたことが明らかになったのである。
円筒土器文化は縄文時代前期中頃から中期後半まで長期間にわたって存続し、東北北部から北海道の石狩低地帯まで広がりをもつ特徴的な文化だ。特徴的というのは、居住域の里地、その周囲に里山、河川流域の里川、そして里海に生かされた集落で、里地・里山ではクリ林やウルシ畑などが育成されていたのだ。このような集落については次回以降で詳しく見ていくことにしたいが、円筒土器文化の登場が突然で、いかに特異なことであったかを確認しておこう。
十和田火山の巨大噴火は少なくとも3回の噴火によって膨大な量の火山灰「中掫テフラ」を噴出した。これまでのところ、噴火の実態はまだ分かっていないが、八甲田山のブナ林が壊滅的となり、回復するのに400年近くを要したことが分かってきた。一方の人間社会については、巨大噴火の直後に円筒土器文化が出現したことまでは分かってきたが、巨大噴火の直前の集落や文化については分かっていない。つまり、巨大噴火による災害の痕跡が認められない。直前まで生活していた縄文人、災害の実態、直後の円筒土器文化を作った縄文人、文化形成のプロセスは分かっていない。謎だらけだ。体力の衰えと手足の不自由さを感じながらも、謎解きに意気込んでいる昨今である。

図2 十和田火山の「中掫テフラ」の降下範囲
(是川縄文館2014「企画展示図録海と火山と縄文人」から引用)
外から2番目の等厚線は約3センチ、3番目が10センチ。
十和田湖周辺は5メートル以上になる。

図3 「中掫テフラ」噴火と円筒土器文化の関係
(辻 誠一郎2006「季刊生命誌51」から引用
円筒土器文化は十和田火山の巨大噴火直後に出現する。噴火前の文化との関係は分かっていない。
断絶としているが実態は不明。