縄文人は昆虫を食べたに違いない。考古学的には明確な証拠はみつかっていないが、わたしはオーストラリアの調査でアボリジニの人たちとボクトウガの幼虫をよく食べたという話を岐阜県恵那市での講演で話した時、(普通は気味悪がるのに)みんながもっと詳細を知りたがったのがきっかけだった。一般にいえば現代の日本では昆虫食はほとんど消えているが、この信州から美濃にかけての地方はハチの子を具につかったヘボ寿司があり、ほかにもイナゴ、カイコ、ザザムシなどを佃煮にして食べている。彼らにしてみれば仲間が増えたくらいに思ったのだろう。
日本人の雑食性は縄文時代からの伝統だと欧米の考古学者によく言われる。酒詰仲男(さかづめ なかお:考古学者)の『日本縄文石器時代食糧総説』(土曜会1961)に代表されるような貝塚を中心とした海産物が詳しく調べられているからで(食用にされたかどうかは別にして)、その多さに驚いているのであろう。それに加えて、近年スシが世界的な食品として注目されるようになったこともある。たしかに、日本人は海産物に関してはスペシャリストなのだ。アメリカのスーパーに行くと魚類のコーナーは切り身が並んでいるだけの簡単なものだ。しかし、肉やその加工品、ハム、ソーセージ、乳製品のコーナーは広く、製品も豊富である。日本でも最近豊かになってきたが、それでもまだまだ貧弱である。食べ物に関していえば、海の国と草原の国の環境差を実感するのである。それが文化というものなのである。
私が食に興味を持ったのは、人口と正確に相関しているからである。一定量の食の供給がなければ社会は崩壊してしまう。歴史的にみれば食べられるものは何でも口にしてきたはずだが、もっとも重要なのは主食料(staple food)である。現代の世界の主食料はコムギ、コメ、トウモロコシにほぼ集約されている。中東、アフリカ、アジアなどの難民キャンプではこれらが大量の人を支えており深刻な飢饉も起こっていない。今のところ食品テクノロジーと流通システムがうまく働いて、当面必要なカロリーが供給されている証拠であろう。
理論とは別に、私は食について調べれば調べるほど食の本質は文化面にあると思うようになった。例えば食材としての虫、民族例を調べるとほとんどの集団が食材として虫を利用してきたのだが、現在では(少なくとも統計的には)ほとんど消えてしまっている。それを無視してよいのかどうか。食の文化的な部分を欠き、いわば伝統的な食(味、匂い、食感、食材)を捨ててしまっている場面が時として見られるのではないか。それとも新しい適応形が生まれつつあるのか。私にはもう無理だが、誰かにぜひ調査してもらいたいと思う。

オーストラリア・アボリジニの絵には、よく芋虫の採集のことなどが描かれる。
(2004年オーストラリア)

いなごの佃煮 / Pqks758
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)