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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第86回 火山ガラス 2019年1月29日

夜中になったので、もう寝ようと片付けていたらコップを落とし破片が台所一面に散らばった。足に刺さるとアブナイと言われて、大きな破片を拾い、ざっと掃除機をかけた後、腹這いになって小破片を濡らしたティッシュをあててふきとる。こんな苦労をするのは現代の日本人だけじゃないかとふと思う。その原因の1つはガラス器の普及、もう1つは室内の床面に関わっているのである。

[先史時代の利器―黒曜石]
ガラスは、実は古くからあった。火山ガラスとも呼ばれる火成岩の黒曜石がそれである。剥片のエッジが鋭く、ヤリ、ナイフ、スクレイパーなどの刃物をつくるのに適しているので、金属器以前は世界各地で広く利用されていた。火山の多い日本では60以上の産地が知られている。含まれる元素の量が微妙に異なるために蛍光X線分析などによって産地の同定ができるようになっている。なかでも質の良い北海道の十勝、長野県の和田峠、伊豆神津島(こうづしま)、隠岐島、大分県姫島(ひめしま)、佐賀県腰岳(こしだけ)などのものはブランド品扱いされ、大陸(韓国やロシア)にまで持ち込まれていたことがわかっている。また長野県では採掘の穴跡が集中する遺跡もある。黒曜石は重要な品で、しっかりした交易ネットワークが形成されていたことがわかるのである。

黒曜石は破片のエッジがするどいので加工のとき手袋をしていないと血まみれになるのは実験しているとよくわかる。旧石器時代の研究が盛んになり始めた1960年代の終わり頃、私は東京の武蔵野台地で野川遺跡の調査をしていた。当時としては珍しく平面的な発掘をやったのだが、関東ローム層は掘り込みがよくわからないこともあって、出土物の位置を一点ごとに記録することにしていた。黒曜石のコア(石核)が見つかるとそのまわりから石器片やチップ(小破片)が散らばって見つかり、そこが石器製作の場所であることがわかるのである。
むろん、黒曜石は縄文時代にも珍重されていた。三内丸山遺跡からは近隣の産地だけではなく北海道や中部日本産のものが見つかり、良質な素材は遠くからでも持ち込まれたのである。矢じりや掻器(そうき)などはほかの石でもつくれるのだが、黒曜石製のものは優品が多く、実用以外に特別の念が込められていたことさえ感じる。

キケンな石器の製作の場はどこにあったのだろう。縄文人の日常生活を描けとよく言われるのだが、つい屋内で煮炊きをし、赤子をあやしたり、魚をつるしたり、食事をつくったりしている場面を描いてしまう。女性はいいが、男性は道具をつくっているところを描いたりする。しかし黒曜石を加工しているのならキケンではないのか。とくに赤ん坊がいるとなるとそうだ。床面はアンペラや草たばを敷物にしていたのか、それとも直接、土間に座っていたのか。明かりの関係もあり作業場は別に置かれたと考える方がいいのかもしれない。

[日本人独特の屋内感]
日本人は家の中と外を厳密に区別する。土足で上がることを嫌い、靴を脱ぎスリッパに履き替えろというのを外国人は不思議がる。こんな習慣はいつ定着したのだろう。1つは仏教の影響だろう。床を上げて祭壇をつくった。それが生活の中に入ってくるのは寝殿づくりの生活面である。ハイハイしている幼児が小さなごみを見つけてかざすのがとてもかわいいという枕草子の一節が思い浮かぶ。そんな感覚が今の私たちの台所にまでつながっているのだと思う。

 

プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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