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連載企画

北の縄文、海と火山と草木と人と

第9回 縄文里山 2019年2月27日

縄文人が創り上げた集落生態系は生活を支えていくうえでとても理にかなったものだった。縄文人の知恵に頭が下がるばかりだが、それだけに感動していてはいけない。集落生態系を支えるための労働は想像がおよばないほどである。集落生態系の重要な部分を占めていた里山について考えてみよう。私は1995年ころから、縄文人が創り上げた里山を復原目標のつもりで「縄文里山」と呼んできたが、岩手県一戸町の御所野縄文博物館が推し進める「縄文里山づくり」を見ていると、縄文人の知恵と労働の結晶が「縄文里山」だと思えるようになってきた。

昨年の3月に定年退職し、生まれ故郷の滋賀県草津市の丘陵地の端っこに帰ってきた。都会から田舎に帰って考えてきたことは山仕事人になることだった。さほど広くもない山が3か所あり、そのうちの2つには4月から筍起こしで通うことになった。荒れ果てた山には竹が侵入していたからだ。汗をかく日々が続いた。夏場は猛暑でへこたれ、その上、3度にわたる台風の直撃ですっかり荒れた山に呆然とするだけだった。秋になってようやく荒れた山の掃除に取り掛かり、燃料となる薪を束にし始めた。枝だけでも一日に8束ほどになった。老人のための杖も作り始めた。神木のような巨大なクスノキを守るためにヒサカキやアカメガシワなどの雑木を切り払った。冬になり、結局、生き生きとした山にするには10年以上はかかることを思い知った。里山を維持するには日ごとの山仕事が必要だということも改めて知った。建築・土木材の切り出し、薪づくり、炭焼きも含めてである。

三内丸山の縄文人は、里地にクリ林を育成し、里山にもクリ林やナラ類などの落葉広葉樹を育成したようだ。木炭として出土するトネリコ属とハンノキ属の大半は、平野部の低湿地に繁茂するヤチダモとハンノキの湿地林から得られたものだろう。いや、湿地林さえ管理していたかも知れない。群馬県の板倉町ではいまでも河川に生育する柳の林を木材資源として管理しているからだ。湿地や河川も里山なのだ。クリ林は、茨城県のクリ農家がやっているような萌芽更新という更新法を利用して育成・管理していたかも知れない。里山のクリ林はそうではなく、背が高くなるように育成していたかも知れない。用途に応じていくつものタイプのクリ林を作っていた可能性がある。こんなふうに考えると、三内丸山の里山から建築・土木材の切り出し、燃料のための薪作りや炭焼き、食料生産と収穫などの作業にかける労働は相当なものであったに違いない。一年を通しての作業スケジュールが組まれていたに違いない。

里地・里山のクリ林を育成し、維持・管理するには、その樹木の生理・生態や、林の育成方法を心得ていなければならない。それに加えて、育成と維持・管理に多大の労働が注ぎ込まれなければ、三内丸山のクリ林は千年以上も存続しなかっただろう。縄文人の知恵と労働には驚かされるばかりだ。御所野縄文博物館の高田和徳館長は、里山の樹木を放っておくとすぐに大きくなってしまい、資源として利用することが難しくなるという。いつも資源として利用していなければ、里山を利用価値のある持続可能な生態系として守っていけないのだ。

里地・里山だけでなく、里川や里海も、人間にとっての有用な資源が絶えない集落生態系として育むには、縄文人の知恵と労働の実態を明らかにしなければならない。市民参加型の「縄文里山づくり」はとても意義のある事業だ。遅ればせながら、わが里山における山仕事に胸を躍らせているところである。

図1 縄文時代中期の三内丸山集落生態系の鳥瞰モデル図
中心の赤い部分が里地。建物など様々な施設があり、その周囲は背の低いクリ林が埋め尽くしている。
里山はそれを取り巻くように、台地上ではクリ・ナラ類などの落葉広葉樹林が、
低地ではヤチダモ・ハンノキ湿地林が形成される。
谷筋にはトチノキ林が形成される。縄文人の山仕事は主に里地・里山で営まれたが、
ときには大木を求めて奥山のブナ林に及んだであろう。
(辻誠一郎ほか2017年、特別史跡三内丸山遺跡年報20から、一部改変・加筆)

図2 一戸町・御所野縄文公園における縄文里山づくりの光景
居住域の里地は木材や果実が加工、消費される場だ。
周囲の台地や台地斜面では有用な木材資源や食料となる資源植物が育成される。
生産と消費が一体となった縄文里山づくりは、縄文人の知恵と労働の実態を知る手掛かりになることだろう。
(一戸町教育委員会作成の縄文里山づくりパンフレットから)

図3 一戸町・御所野遺跡における縄文里山の復元計画
右手東側の台地斜面にはクリ・コナラなど有用な樹木が育成される。
谷筋にはトチノキやオニグルミが育成される。
里地にも、三内丸山遺跡と同様に、背の低いクリ林やヒエなどの畑が作られる。
(一戸町教育委員会2010年、御所野遺跡植生復元整備計画書から)

プロフィール

北の縄文、海と火山と草木と人と

1952年滋賀県生まれ。国立歴史民俗博物館教授、東京大学大学院教授を歴任。東京大学名誉教授。
理学博士(大阪市立大学)。専門は地質学、植物学、生態学だったが、いまは無く、あえていえば歴史景観生態学を創出しつつある。

世界ではさまざまな巨大災害が起こっている。巨大噴火、巨大地震、これらは私にとっては環境変動の一つ。巨大なものばかりが注目されるが、ささやかなこともたくさん起こっている。およそ3万年前から現在までの、大小さまざまな環境変動が人社会や生態系にどのように働きかけ、どのような応答があったのか。そんなことを研究している。最近では、独自の技法を開発しながら、その様子をイラストや絵にしている。一方では、縄文時代の集落生態系の復原に取り組み、色鉛筆画にしつつある。

著書は中途半端なものばかりで薦められないが、まじめなものに編著『考古学と植物学』(同成社2000)がある。最近、『隙間を生きる 植生史から生態系史へ』(ぷねうま舎、非買本)を発行。可能な範囲で差し上げる。

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