梅棹さん(民族学者、初代国立民族学博物館長)は民博の館長をやめるとき、これは「王殺し」であると言った。「殺す」はあまりにもキツすぎるのではないかとまわりは心配したが、「いい言葉だろう。社会人類学の古典『金枝篇(きんしへん)』の基本テーマなのだ」とむしろ得意そうだった。今思えば王としての自負があったし、次の王は単なる交替ではなく強い覚悟でやってもらわねばならんという願いが込められていたのだと思う。
『金枝篇』はJ.G.フレイザーが1890年に出版した(その後も書き続けて、最終的には1914年に13巻の大部として完成させた)。イタリアの小さな村に女神ディアナの神殿がある。その森のオークの樹に黄金の枝があった。森を治めるのは絶大な力を持つ祭司(王)で、任期は殺されるまで。次の王になるものは金枝を手折って王と戦って殺さねばならないという伝説があった。フレイザーはこの交替劇を植物の死と再生とむすびつけ、世界各地の神話、伝説、習慣のなかから類似する例を集めて、謎を実証的に解こうとしたのである。19世紀の大英帝国的なフレイザーの鼻持ちならない傲慢な姿勢(学者は書斎の椅子に座っているだけで、情報を集め現地に出かけることはないこと、多くの民族はまだ未開のものだ)については後の世代は否定的だったが、神話、呪術、タブーなどの精神世界を縦横無尽に語ったおもしろさは『金枝篇』が今も読み続けられている理由だと言えるだろう。
日本の考古学は前記のおもしろさを否定する立場からはじまっている。縄文時代研究は1930年代に山内清男博士(やまのうちすがお、考古学者)が出した土器編年を中心に進められてきた。すなわち縄文時代は5期に分かれ、各期はおよそ10の土器型式にわかれる。土器は大陸から伝搬したがその後は日本列島で独自に発達した。社会経済は狩猟・漁労・採集段階で栽培(農業)はなかった。すべてのムラは4、5軒の住居で形成され、自給自足の生活を送っていたが、それは稲作が始まった弥生時代になって終わる、とするのが基本的な考えであった。
山内さんの土器型式論は100年以上前のヨーロッパで打ち立てられた理論を忠実に踏まえている。しかし、現在は相次ぐ新しい発見と技術の進歩によって縄文時代の在り方を考え直さねばならなくなってきている。例えば土器の出現が予想より大幅に古く(現在の土器編年は6期に大別されている)、日本列島を含めた東アジアで発生した可能性が強いこと、ウルシやマメ、ウリ類などがすでに栽培されていたこと、ムラはすべてが小さく同規模だったのではなく、なかには三内丸山遺跡のように巨大モニュメントをもつ複雑な(都市的な)性格を持つ大きなものがあったこと、交易や人の移動も意外と盛んで大陸との関係が無視できないこと、気候の変化の影響が社会の在り方に大きく影響したことなどがそれである。
最近私が思うのは、今の「縄文ブーム」はなぜ起こったのだろう、これからどうなるのだろうということである。もちろん答えは簡単ではないのだが、基本的には日本人の「郷土史好き」が大きなカギだろうと思う。とくに、第二次世界大戦後の文化財保護法ができたことにより、膨大な費用がつぎこまれた大規模な発掘が各地で行われるようになって多くの人々を巻き込んでいった。発掘についてはマスコミが盛んに報道して広く市民の関心を高める。こんな現象は世界でもあまり例を見ないものである。また、旧石器捏造事件が示すように、考古学者はいつも正しいのではない、もっと多くの人の意見を聴くべき、あるいは言うべきだと人々は思い始めたのだろう。
縄文時代については日本の考古学はこれまでモノに執着しすぎて、結果的に精神世界を切り落としてきたために(それはたしかに必要ではあったのだが)ふくらみのない学問になってしまっていた。しかし人間とは、論理的で科学性だけでは説明できないことは私たちはよく知っている。そして、私たちの直接の先祖である縄文人はヒト、ヘビ、イノシシなどの具象的なもののほかに、抽象的な文様であってもその精神世界の豊かさを示す遺物が多いことは重要である。これを糸口として、これまでタブーに近かった精神世界のことを考える余裕が生まれたのだと私は考えている。『金枝篇』のおもしろさは、やはり学問の本来のあり方を示しているのだと私は考えている。

(文献) J.Gフレイザー(Mダグラス監修 Sマコーミック編集 吉岡晶子訳)2011『図説金枝篇 上、下』講談社学術文庫