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歴博の決断、相対年代から絶対年代へ

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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第89回 考古学の時間の捉え方:
歴博の決断、相対年代から絶対年代へ 2019年5月14日

この3月に国立歴史民俗博物館(歴博)の先史・古代の常設展示(第1展示室)新しいウィンドウが開きますが全面リニューアルされた。これまでの展示は1983年につくられたものだが、考古学の発掘が盛んな日本では新しい発見が相次ぎ、その成果を取り入れる必要があったのだろう。しかし、真の目的は日本考古学を相対年代(土器編年)から絶対年代(放射性炭素C14年代)へという方針転換にある。歴博はC14年代の採用を積極的に推し進めてきた。2003年には弥生時代の開始が定説より500年早かったと発表して反発や混乱を呼んだことは記憶に新しい。今回はさらに詳しく、各時代のはじまりを、旧石器時代は3万7000年前、縄文時代(土器の出現)を1万6000年前、そして弥生時代(水田稲作の開始)を九州で紀元前10世紀後半、近畿は紀元前7世紀、東北北部は紀元前4世紀、中部・関東は紀元前3世紀とし、古墳時代は紀元後3世紀中頃と明示したのである。

文字のない先史学は伝統的に出土遺物によって年代を決めてきた。大きくは石器―青銅器―鉄器時代がそうである。日本では土器編年を用い、とくに縄文時代は1930年代の山内清男(考古学者)の土器編年が中心であった。山内の編年論は当時の欧米の最先端である文化一元論(文化要素は1つの場所ではじまり、それが拡散する)に基づいている。土器はメソポタミアではじまり、約3000年前に日本に伝搬した。土器は5期に分けられ、一期は大体10型式に分かれる。その変化は日本列島で均一に認められるというものであった。これに対してはミネルバ論争(1936)と呼ばれる歴史学者喜田貞吉との論争で知られるような(常識論とも言える)反論はあったが、理路整然と押しきった。とくに第二次大戦後は皇国史観からの脱却と進歩史観の浸透によって日本考古学の主流となったのである。

ところが時代とともに、数々の矛盾が現れてそれと戦わねばならなかった。山内説に反旗を翻したのは明治大学、とくに芹沢長介(考古学者)だった。問題のほとんどは縄文時代のはじまりに集中していた。1つは1946年の岩宿遺跡(群馬県)の発見である。これは今日では旧石器時代の遺跡であることは明らかだが、それでは、縄文との接続が説明しにくいので、先土器とか先縄文とかの言葉を使って処理していた。決定的だったのは、1956年の夏島貝塚(神奈川県)の年代測定による約9500年前というC14 年代だった。しかも黄島貝塚(岡山県)、福井洞窟(長崎県)、など続々と古いC14年代の例が増えていった(いまでは大平山元遺跡(青森県外ヶ浜町)の16000年前の土器片まである)。そのため旧石器時代と縄文との間に長い空白時間ができ、縄文時代草創期という新しい期をおくことにした。それでも年代があまりに古いので、「土器は日本から始まったのか-そんなバカな」という論争をひきおこした。(山内さんは最後まで認めなかったが)理論の基本であった「文化一元論」の破綻であった。
現在は縄文時代では土器編年とC14年代を利用するようになってきた。それは、他分野の科学との連携が不可欠のものとなってきたからである。考古学に限っても世界の他地域との対話ができなくなった。とくに文化の伝播の考え方が文化一元論ではなく、要因はどこでも発生しうるという「文化多元論」が支配的になってきている。(ここでは詳しくは延べられないが)縄文時代の終末についても、地域別でこれほど大きな差があることも問題の在り方をしめしている。

それでは考古学は型式論を捨て去るべきものだろうか。私は土器型式編年の力は基本的に失われていないと考えている。具体的な例をあげてみよう。三内丸山遺跡では「盛り土」の層位を中心に詳細なC14年代と型式の比較が行われたが、それで明らかになったのは、時代順序に関しては両者はほぼ整合することであった。これをどう捉えればいいのだろうか?そのためには相対年代と絶対年代の扱う時間の差を考える必要があるだろう。C14年代は「時計の時間とおなじく「一点=一刻」である。それに対し土器型式の時間は「一型式=巾」で時間の捉え方が全く違うことである。

土器は縄文人にとって欠かせないものであり(あれほど大量につくられたという事実がそれを示す)、しかも時代に敏感に変化していったという文化の核心に位置するものだった。しかし、気候の温暖な縄文時代前期に形成されたこのまとまりの良い円筒土器文化圏は寒冷化がすすむにつれて地域的な縛りが緩み、次の弥生・続縄文時代にはそれぞれ別の文化へと変化していったことは文化を動かすカギが土器以外のものに変わったためだと考えられるだろう。

日本考古学を代表する機関の1つである歴博の方針転換はこれからの縄文研究の在り方を大きく変えると思う。私の研究歴もこの問題と重なるので感慨深いものがある。重要なことは私たちが既成の概念に縛られることなく、新しい事実や視点に目を開き、新しい研究の道を歩むことだと考えている。

三内丸山遺跡 南盛土土層断面

プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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