若い頃は画家になりたかった。あこがれたのは後期印象派、とくにゴッホやゴーギャンのはっきりした輪郭線と強い色をつかった絵に引き付けられた。19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパは世紀末とさえいわれるほど混沌としていたが、絵画の世界には新しい創造力と知性が湧き出ていると感じたものだ。
ゴーギャンは理想の地を求めて「常夏の楽園」とよばれた植民地のタヒチに行った。ところがそこも住んでみると決して理想郷ではないことがわかる。そのため、メランコリー、嫉妬、死霊などの暗いタイトルが混じるようになる。そのなかの1つ「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は人間の一生を3つの部分、過去(生まれる)、現在(生きる)、未来(死んだあと)にわけて描いたものである。この問題は古くから人間が問い続けてきたものであった。人間はいつかは死ぬ。それならば、その後はどうなるのか。これはそう簡単に答えが出るものではないが、ここでは(個々の事実からは離れて)別の観点である「時間の観念」から考えることにしたい。
フランス人のゴーギャンにはもちろんキリスト教という精神基盤があった。キリスト教(一神教であるイスラームも含めて)では、時間が直線的に進み後戻りしないと考える。歴史には終わりがあり、そこで最後の審判が行われる。善人と判定されると安楽な天国に行き、悪人であれば苦痛に満ちた地獄に落とされるのである。ところが、ギリシャ神話、仏教、ヒンズー教、アニミズム(日本もこれに入る)などの多神教の世界では、時間は円を描いて終わりがない、つまり、死後の世界でも今と変わらぬ生活が続くのである。ゴーギャンは人生を3つに分けたが、多神教の世界では「どこへ行くのか」は「どこから来たのか」に還元されて2分されるだけで、むしろ「どこから来たのか」という出自のほうが重要だったのである。
埋葬すなわち死んだ人をどう扱っていたかを知るのは考古学の大きな課題であった。その手法は時代順に配列してその変化を見ることであった。思いつくだけでも、古いところではネアンデルタール人の「花の埋葬(これには反論もあるが私はありうると思っている)」、旧石器時代には小さな何千という象牙玉に飾られた幼児の例があり、その後にはエジプトのピラミッド、ギリシャ・ローマ時代の英雄の墓があり、壮大な中国や日本の王陵が人々の興味を引っ張ってきた。しかし、それは目立つものを恣意的にとりあげたにすぎず、事例の増えた現在では、もっと地域性に注目する必要があるだろう。
縄文時代はどうだったのだろうか。関東地方などでは墓地は集落の中心に置かれることが多いのが特徴ではあるが、墓は墳丘や石室など壮大な装置を作らず、副葬品もあまりなく、穴を掘って埋めるという範囲を出ないと言えるだろう。しかし、そうすると頭が痛いのが三内丸山遺跡である。この遺跡の中心には六本柱がそびえ立ち、大型住居、掘立柱建物群、盛り土(祭祀場)、道路に沿って作られた墓列とセットになって整然と集約されて、生活場所である住居区とは区別されて作られていることは、後世の寺院に近い宗教的装置があり、それを支えた制度(集団)があったと考えざるを得ない。もし、墓と祭祀場だけを取り上げるならば、次の時代の大湯環状列石(秋田県鹿角市)、小牧野遺跡(青森市)、伊勢堂岱遺跡(秋田県北秋田市)などの環状列石やキウス周堤墓群(北海道千歳市)に繋がることは確かである。しかし、それを支えた組織(社会)が今のところよく見えてこないという歴史的な不連続性をどうつなぐか大きな課題となりそうな気がするのである。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
( D’où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?
ポール・ゴーギャン(1848-1903) / ボストン美術館所蔵 )
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