貝取りに行った女たちを迎えにいこうと浜辺を走っていて、車を砂に取られてしまった。いろいろやってみたが動かない。思ったより時間をとられ、あたりが薄暗くなってきた。しかたがない、女たちのところまで歩いていって応援を頼むことにした。その時、安全のためにカギを置いていこうとした。短パンにTシャツという軽装なので、カギを落とせばどうしようもなくなると思ったからだ。
ところが、一緒にいたサムがそれはだめだと言う。「留守中に悪い奴(妖精)がまたでてきて、車を海に突っ込んでしまうに違いない。これは奴らのせいなのだ、いまも奴はどこかにひそんで私たちを見ているぞ」。サムは火の玉が地面を走ったり、ふいに木を押し倒したり、老女を突き飛ばしたりなどの例をいっぱい挙げて頑強に反対するのである。たしかに、たそがれの迫るあたりはしんとしてそんな気配も感じる。歩いて30分ほど離れた場所で女たちは待ちわびていた。話を聞くとすぐやってきて、力を合わせて砂から車を押し出してくれた。いつも口うるさい連中なのに一言の非難の声は出なかった。困ったときはまず動くというのが彼らの行動パターンなのだ。そのあとは無事にムラまで着いた。やれやれ。
あとになってサムとの会話を思い返してみた。
私は、車が動かなかったのは私の運転がヘタだからというのが原因の1つだと思っている。しかしサムは「今朝来たときは何も起こらなかったじゃないか。つまり事故はいつでも起こるのに、何故、この時間、この場所なのか」と言い、「カギを放置するのは論外だ、最悪を予想して行動に責任を持て」と言うのである。
私は合理的な(はずの)経験則あるいは統計的原則にこだわっていたと思う。ところがそこには「もし、なぜ」を解き明かす説明が全くないし、やるとすれば、長い言い訳が必要である。一方、サムの説明は矛盾がなく明解であった。結局は、サムの方が合理的であり、効果的であったのだ。
これはアーネムランドで調査をしていた時経験したことである。あれからもう30年も経っていて、その後彼らの生活は著しく近代化している。それにもかかわらず、基本的には彼らの世界観は変わっていない。彼らのドリーミングと呼ばれる精神世界ではカミや魂や精霊に満ち満ちたこの世界はどう動いているか、つまり人間が何処から来て、何処へ行くのかという人類の永遠の謎に対する答えが語られているからである。
現在の私たちは科学的、合理的に物事を理解しようとする、いわば(キリスト教的な)西洋思考が幅を利かせている。しかし、縄文時代からの日本人の精神史を辿っていると、それではやはり充分ではないなと思うようになった。

アーネムランドを走る四駆(撮影:小山修三/国立民族学博物館所蔵)