北海道・北東北の縄文遺跡群が世界遺産登録に推薦されることが決まった。政府は2020年2月までにユネスコへ推薦書を提出し、2021年夏に開催されるユネスコ世界遺産委員会の審議に通れば決することになる。まだ時間や手続きは沢山あると慎重だが、これでまずは一安心というべきだろう。
三内丸山遺跡を世界遺産にという考えが出たのは10年以上も前だった。その間、世界遺産の性格は観光に重点が移り、そのため政治的な地域の思惑が加わり、青森だけではなく北海道、北東北に地域を広げる修正が加わったが、それは1万年以上前からこの地域に土器を中心とする文化圏が形成されてゆくユニークな歴史を提示することになったと思う。
三丸の発掘はそれまでの縄文時代のイメージを変えた。例えば径1メートルの6本の柱が等間隔で立てられた塔があり、その周りには大型住居と掘っ立て柱の建物群があり、そこから海へ向かって、墓列で縁取られた道が続く。この装置は、それまでの小さい集落という自然社会では到底説明できないものだった。それを踏まえて、様々な研究会やシンポジウムが開かれ、他の地域からも考古学者だけではなく学者、知識人、芸能人が加わって大きな議論が起こった。その結果、今までの縄文時代観では捉えきれない社会があったということになった。
議論百出状態の中でもっとも説得力を持ったのは1995年に出された梅棹忠夫さん(民族学者、国立民族学博物館初代館長)の都市神殿論だった。梅棹さんは朋友だった泉靖一さん(文化人類学者)のアンデスでの成果を踏まえて、文明の起源を説き「六本柱の建物は、神殿であり、それは都市に生まれる。都市は情報の集まる場所である」と主張した。だから世界のどこで文明は生まれる。この遺跡の持つ生産、交易、宗教などには複雑で多様な性格がうかがえる。日本文明の揺籃期であったとみなしてよいと説いたのである。これが青森の人々にどんな誇りと喜びを与えたことか。今でもその講演会の人々の興奮ぶりが目に浮かぶほどだ。
三丸の未来のあるべき姿にも梅棹さんは明確な意見を持っていた。これからは情報の時代が来る。青森県が中心になって総合縄文センターを作るべきである。現在はシンポジウムや研究会をはじめたくさんの情報が流れている。専門書はもちろん新聞、テレビ、展覧会などあらゆる資料を集めて考える場所と装置を作ることが必要だと言う。「それはどれほどの費用がかかるか」という質問に対して「20億ぐらい」としれっと答えた。こんな時、梅棹さんは理想論を述べるのが特徴である。それは民博を設立した時と同じだった。あまりの額に聴衆は静まったほどである。三丸の現状は、展示や研究、広報のための装置は充実しているが、組織としてはすでに遅れてしまったように思う。しかし、技術の進歩はすごいものだ。写真やビデオなどの映像も飛躍的に向上し保存や蓄積なども大きな問題ではなくなる日は近いと思う。今ではスマホで祭り、食事、旅行、遺跡めぐりなども簡便にできるようになり、考古学が扱う素材も岡本太郎の芸術論をこえた人形やマスコット作りなどの領域にまで多様化している。私はこんな情報は行政や専門家ばかりがやるのではなくボランティアなど在野のゆるやかなしばりをもとに発展させていくべきだろうと考えている。

三内丸山遺跡を訪れた梅棹忠夫氏(右/1997年11月) 画像提供:三内丸山縄文発信の会