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連載企画

縄文遊々学-岡田 康博-

第43回 縄文とうさぎ年 2011年2月14日

新たな年を迎え、三内丸山遺跡には例年以上にたくさんの見学者が訪れています。昨年12月を見ても、縄文時遊館では4日の東北新幹線全線開業以来約1万人の入館者があり、これは昨年度比で約4倍ということになります。これは明らかに新幹線開業効果と言えます。遺跡に携わるものとして多くの見学者に足を運んでいただけることは大変うれしいことです。一時的なブームに終わることなく、今後も情報発信を続けていきたいと思います。

さて、今年はうさぎ年です。うさぎは縄文遺跡と深い関係があり、人間となじみがある動物と言えるでしょう。現代ではペットとして飼われるくらいですからどう猛な動物ではなく、したがって比較的安全に獲ることができたためか、多く食料としたようです。

動物考古学の第一人者である西本豊弘さん(国立歴史民俗博物館)によると、遺跡から出土する動物の骨ではシカ、イノシシ、タヌキについで4番目に多いそうです。その理由として、骨が小さいので発掘では注意しないとなかなか土の中から拾いきれないということと肉と骨をミンチにしたような調理方法だと骨が粉砕され、やはり残らないのではと考えています。

三内丸山遺跡では縄文時代前期中頃(約5,500年前)のゴミ捨て場からノウサギの骨がたくさん出土しました。ノウサギに次いで多かったのはムササビの骨でした。通常、縄文時代の遺跡ではシカ・イノシシが出土する動物の骨の8割を占めますが、三内丸山遺跡ではノウサギとムササビが8割を占めます。このことはノウサギやムササビが多く獲られたこととシカ・イノシシの生息数が以外と少なかった可能性を示しています。特にイノシシは積雪地帯での生息は困難とされ、現在では福島県以北には生息していないとされています。

三内丸山遺跡でノウサギが多い理由について、西本さんは、当時の植生環境との関係を指摘しています。当時、ムラやその周辺にはクリ林が多く、生育と実の採集のために雑木が切られて明るい林が広がっており、草地が多い疎林も多かったことから、その環境はノウサギの生育に適していたとしています。

三内丸山遺跡出土のノウサギの骨

 

さて、ノウサギはどのようにして獲ったのでしょうか。まずは罠猟が考えられます。ノウサギの通り道に罠を仕掛けるものです。それから、冬の時期に限られますが、ノウサギを見つけると頭上目掛けて直径30cmほどの環状になった樹皮製のものを投げます。民俗事例ではこれを「ワラダ」と呼んでいます。それをノウサギは天敵である猛禽類と勘違いして急いで雪穴や巣穴に逃げ込みます。その場所をしっかりと確認し、生け捕りにする方法です。威嚇猟法とも呼ばれています。秋田県の中山遺跡(晩期)では「ワラダ」と考えられる製品も出土しています。

ノウサギは、雪の季節、縄文人にとっては貴重なタンパク源であるとともにその毛皮も寒さをしのぐことができる貴重品だったと思われます。

プロフィール

岡田 康博

1957年弘前市生まれ
青森県教育庁文化財保護課長  
少年時代から、考古学者の叔父や歴史を教えていた教員の父親の影響を強く受け、考古学ファンとなる。

1981年弘前大学卒業後、青森県教育庁埋蔵文化財調査センターに入る。県内の遺跡調査の後、1992年から三内丸山遺跡の発掘調査責任者となり、 1995年1月新設された県教育庁文化課(現文化財保護課)三内丸山遺跡対策室に異動、特別史跡三内丸山遺跡の調査、研究、整備、活用を手がける。

2002年4月より、文化庁記念物課文化財調査官となり、2006年4月、県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡対策室長(現三内丸山遺跡保存活用推進室)として県に復帰、2009年4月より現職。

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