三内丸山縄文遺跡で開催された「お月見コンサート」に参加するチャンスを頂いた。時は9月5日満月の夜であった。お月見に先立っての企画に、期待に胸を躍らせて会場の一人になった。まだ出ぬ月の縄文の丘にはかがり火が焚かれ茅葺屋根の数棟がライトアップされ心を澄ます時間が流れた。
ジャンルの異なるアーチストの演奏に緊張しながら耳を傾ける。眠る霊を呼び出すような太鼓の音、秋の冷気を引き裂くように横笛が叫び、地の底から響くように尺八が唸る。かがり火の煙は竜のように暗雲の空に吸い込まれて流れる。いつのまにか音の世界に引き込まれている自分に驚いた。「闇は人を結びつける」とは以前に書いたが、今夜ばかりは違う。人工的な光があり遠目にも人のうごめきが見え、演奏者たちの表情さえわかる。時折、雲間から月の光が覗くとか会衆の唸るような声があがる。
夜ともなれば暗闇に支配されていたであろう縄文ビトたち。明るい月の出を祈るような思いで待ったにちがいない。その一つには月の出を待つ音や踊りがあったかも知れない。闇の向こうにいる獣の脅威の回避の意味もあったかも知れない。その意味では音楽や踊りは祈りでもあったのかも知れない。原始宗教の共通点は「奏でて舞う」であったことを思い出した。
1000年の歴史を刻んだ縄文ビトがひたすらに見えない神に祈りを捧げながら奏でながら舞を舞う姿を想像しながらステージを見守った。縄文の丘に流れる音は古代信仰と芸能の原型のようにも見えた。流れる曲は畏敬の音、生きることへの執着の表現ではなたかとさえ思わされた。
縄文の古をしのぶ笛太古 地を揺るがして月の出を待つ
縄文の異空間に身をゆだねた事間、疲れた体に月の光がやさしく活力を与えてくれた。帰宅の車窓から眺めた月は、すでに異空間の月ではなく娑婆の月になり明日のスケジュールを巡らす時間に戻されていた。時間も遅いので遠まわりして帰ろう!とはならなかった。