三内丸山のお月見は、私のイマジネーションに油を注いでくれたようだ。日本人、否、縄文ビトたちのお祭りが好きであったのではないだろうか?
身を守るための祈りの祭り、狩猟で獲物が獲られた感謝の祭り、集団の誰かが亡くなった弔いの祭りなどと集団として執り行っていたのではないだろうか。いわゆる、「祭祀」という慣わしが村落という集団の結びつきを濃くしていたのだと推測できる。
ここまで書いて気がついたことは「祭ってなんだ?」だった。上段までのことは平たく誰にでも考えられることだが、一歩踏み込んで考えるとちゃんとした知識が必要だと気がついたので、フリー百科事典「ウィキぺディア」に頼ることにした。結果はなんとも北島三郎の「まつり」ならば気安いが奥が深く人間の本質にかかわる問題のようなので、ここはしばらく書き込みの手を休めて勉強の時間にします。
ようやく「祭」の資料を読み終えたが、これは実に複雑で頭の中を整理するのに手間取ってしまった。知る人に簡単なことかも知れないが素人の私には久しぶりの発見になった。資料によれば「まつり」は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を示すものであるようだ。古い時代には祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制にあったため、政治のことを政(まつり)と呼んだという。祭祀の際には、神霊に対して供物や行事などさまざまなものが捧げられた。最近は宗教的な要素がうすれ行事だけがクローズアップされて「祭」とされていると言う。
「まつり」や「まつる」という古語が先にあり、その後、漢字が流入して「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」などの文字が充てられたようである。
さて、縄文のお月見から生じた「祭」だが、日常的に夜には光が乏しく動物の襲来におびえていたであろう縄文ビトにとり、煌々と照らす月明かりは何にも変えがたい喜びの光であったことだろう。彼らはこの時とばかり集い語らい酒肴で酌み交わしたことだろう。今、縄文カアサンたちの手による料理に魅せられているが、厳粛な儀式のひとつが「月見」で「月見の儀」だったのではないだろうか。