最近の心痛める話題に、折々に樹木に傷をつけられたとか、樹木が鋸で切られたとかのニュースが見られる。傷をつけられた程度で樹木が死ぬことは無いかとは思うが、鋸で切られた新聞の写真を見る限りでは何とも痛々しい。
それが世界自然遺産白神山地の核心部や緩衝部だとかの問題ではないと思うのは私一人ではないことだと思うのです。古来より森林を生活の場としてきた民俗は洋の東西に限らず何らかの生活痕を見ることができたに違いないのです。白神の懐の深い場所には古い鉈の傷跡がいくつも見られるのは、人々が森を生活の場として使った証明でしょう。それは森で生きるための何かの知恵だとすればうなずけるものがあります。
しかし、21世紀の現代社会では、その必要性を探すことが難しいのが現実です。人も創られたもの、自然も創られたものと考えることがあります。創られた者が創られたものを壊して築かれた文明であることは歴史が証明するところですが、そのような選択が間違いであることに気がついた人類の選択は「壊さない」「永続的な」ということです。それは人の手では創れないことを認識したからでしょう。事の良し悪しや法的な根拠などではない、人としての心の問題として考えます。殊に、昔は…ではなく「今は世界自然遺産だから」と言う意識が大事なのではないかと考えるのです。
誰が手にて創られしかは知らねども
白神の森にいのちを洗う ツカサ
このような詩を詠んでみたくなるような心境に共感する人の多いことを願う私です。多くの人は、白神の森の心音に耳を傾けることで癒され元気をもらっています。そのような人々の思いは誰も妨げることはできないでしょう。誰かの極めて個人的な思いだけで自然を痛めつけることは許されるものではないでしょう。どんな自然でも人類の共有財産であり、決して損なうことない事を再認識したいものです。同じ「いのち」をもつ存在だからです。何だか暗い思いにさせてごめんなさい。
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