白神山地は、ブナを軸にした落葉広葉樹が広大な面積で残されている。広大?というものの地球の規模から見るとカケラのように小さい。それだけに人類に遺された最後の「緑の宝石箱」とも言える場所として受け止めなければ次世代に遺すことは難しい。
日常の私たちの努力の他に人類が生きるためと言う広い視点からも考えてみたいのです。 私ごときが、とやかく言う前に多くの人たちが危惧感を共有していると思う。
その危惧感を専門家に限らず私を含めた一般ピープルや大手企業が同じ目線で捕らえることが望まれるのだろう。
単に一企業や個人ではなく全体の共通した「課題」とするにはどんな手段があるのか考え込んでしまう。
多分、ヒトより先んじることが天下を制するという経済中心の社会の通念が世界を席巻してきたのだろうが「お前さんが良ければ、それで良いの?」という時代に突入したのは昨日今日の問題ではなかったはずだ。
「強ければ生きられる」という考えは時代にそぐなわない考えのようだ。世界は核の問題を抱えているが力のある一国だけでは対処できないのは昨今のニュースから読んでとれる。
相互に方向性を共有する以外に活路は見え出せないことをニュースは証明している。今日もまた、時ならぬ春の嵐が吹き荒れ「桜の開花に影響が・・・・」なんて騒いでいるが問題の根源はそこにはなく、自然界では単独で生きている姿を探すのは難しい。
多少の競争原理は生きている限りは避けられないが、種の絶滅にまで追い詰める系は少なく、どこかで助け合いながら子孫を残す働きをしている。自然淘汰!これすらも学者の理論だがそれを否定したヒトがいないことを考えれば、その摂理の中で生命は維持されているのだ。
その摂理こそ共存以外の何物でもないのだろう。弱いと思われる種がいく数千万年もの前から生きているのだし、そこから人類が生まれ今まで生きてきたのだ。
ナンテ書けば「学校の先生みたい・・・!」という謗りがあるかも知れない。これが私の自然を捉える土台だから、どこかで表明?しておかないと「お前はどこから考えているのだ?」と言われないようにしておきたい。
私は「優秀な生徒には教師はいらない。むしろさ迷いながら道を探している生徒にこそ教師が必要だ」との考えを貫いて生きた。突拍子もない強い誰かではなく、互いに手を取り合いながら生きる生き方を勧めて教壇を去った私だった。縄文ビトたちは、その突拍子もない強い誰かが集団を牽きいたのだはなく力を寄せ合いながら歴史を築いた。
それは自然の摂理から学んだことだと考えれば人間の生き方は自然の生き方とオーバーラップしては考えられないだろう。