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連載企画

縄文の風を感じてみませんか?-土岐 司-

第50回 縄文エッセイ まとめ編 2011年3月25日

随分と私ごときのエッセイに心を注いでくれた方々には御迷惑をおかけしたと深く反省しています。理系人間の私はまったく文系の国語的ではないし、頭の中が文系に変化したのでもない。それゆえ支離滅裂になり、行方のない流浪の民のような構成になっていたことは否めない。

しかし「縄文との出会い」!これは私の思考体系を劇的に変換してくれたのは間違いない。きっとこの森を縄文シュが歩いたのではないか?から私の縄文遍歴が始まったと思っている。折しも西目屋村の水上遺跡の発掘現場を毎日眺めるのが通勤の途中の楽しみになった。彼の発掘に当たる縄文おばさん達が古代の夢を掘り続ける姿から触発される面も少なくはなかった。白神山地の豊かな自然の恩恵を余すことなく受けながら文化を維持した縄文の先輩を偲びながら、三内丸山の丘を訪ねることも頻繁になった。何故か判らないがハマッタのだろうが、引き付ける魅力が限りなく深いものがあるからだ。多くの方々の縄文エッセイを読ませていただいているが、それぞれに縄文の魅力の虜になっていることで伺われる。青森県郷土館の農具や漁具など生活用具の原型は三内丸山の同じ展示物がベースになっていることは容易に理解できる。食材だって三内丸山の「月の宴」からすれば素材の原型は縄文の祖が食していたのとは大きな差異はないようだ。

青森県の先史時代には岩木山山麓や津軽半島で土器を作っていて縄文の先輩の痕跡がある。縄文の草創期早期から前期には「縄文海進」をし、行動範囲が拡大されていたことが伺われる。そんな新進の気風は現代社会に受け継がれたのだろうかと思えるのは、1960年代には「青田刈」と称して「金の卵たち」が中京阪に送り出され日本経済の復興に大きな役割を果たした。同時に「出稼ぎ」で大人たちも津軽を後にしていた。背景には貧しい生活があったとは思うが、縄文の先輩のように海に漕ぎ出した情景と重なって見える。同じ時代には「人材」だけではなく北東北の広大なブナ林が伐採されて中京阪に送られチップやパネルに加工され経済成長を支えたことを忘れてはならないだろう。そのように考えると縄文の先輩の時代は「北の文化の中心にいた!」と考えれば中央政権の外にありながら文化を発信していたと胸を張って言えるような気がする。清新の気風の先取りとも言える縄文思想が受け継がれる地には、多くの文人や軍人が生まれる背景が先史時代から脈々と受け継がれている。これこそ「郷土の魂」とも言える遺産ではないだろうか。現在、北海道を含む縄文文化を世界自然遺産登録にとする青森県だが、そんな流れの片隅で縄文と世界自然遺産白神山に関して拙文を書かせて頂いた。本当に感謝に堪えない感動をかみ締めて一段落としたい。また、新しく何かを学びながら残る人生を書き綴ることだろう。関係した皆様に心より謝意を申し上げて幕をひくことにします。とっつぱれ・・・・

プロフィール

土岐 司

1942年青森県生まれ

高校理科教員を38年勤め、2004年有限会社ヒーリングエコツアーPROガイド エコ・遊を設立。 教員在職中、白神山地を題材とした授業の中で、白神の自然を後世に残すという想いに目覚める。

会社設立より現在に至るまでのシーズン中(5月中旬~11月中旬)に白神を留守にしたのは片手で数えるほど。

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