「海はキライだよ。気持ちわるい。」マタギサミットの帰り道、ずっと続く海岸の景色を見ながら若者がつぶやきました。月山を下りて新潟空港まで長野県組の人たちに送ってもらう道中のこと。海と聞くだけでリゾートの風景が浮かび、海が見えたらはしゃいできた私には それは新鮮な山の人の言葉でした。
マタギのおじさんたちに話を聴くときに際立って感銘深いのは、実に仔細を極めた狩りの記憶と、その状況の表現がこのように本能的、皮膚感覚的に語られることです。生まれ育った土地や猟場を身体で知っている人間の凄みが感じられるのです。
縄文の人々もこのように五感で身のまわりの空気を瞬読し、身のうちのザワツキに鋭敏に応えながら、湧き出る霊的な言葉を山野と交わしたのかもしれません。
人の身体そのものが媒体(メディア)であり、その媒体を通した体験を伝統的に生活集団が共有しているなら、その体験をわざわざ文字に置き換えて伝えることはナンセンスに思われたでしょう。文字はもとより言葉にさえする必要のない体験が マタギの仲間内では当たり前に共有されているように。
顧みて現代の私たちは、自分の家族でさえメールという文字コミュニケーション無しには立ち行かない危うい人間関係を生きています。
そこでは文字に当てはまらない心象、現象は共有されない。
今では多くの人が、貧弱な携帯文字に当てはまる心の振幅しか持ち合わせていないようにも見えます・・・人間の心は進化しているのでしょうか?退行しているのでしょうか?
(縄文の子どもたち より)
田口先生がオーガナイズされる勉強会では、動物保護の観点から、狩猟に制限を課して金縛りにしてきた自然保護運動が、ときには山野そのものを縛り、生態系のバランスを損なっている場合があることも知りました。
自然との関係を築き損ねた 農林牧畜業とあいまって、かえって獣の害獣化を招いている現場についても丁寧に具体的に説明されました。
犬をつないで飼いましょうという保健所の指導で 鹿やイノシシやの害獣を追い払う機能が村から失われ、老齢化した村人が犬に引きずられながら散歩をさせている実情など 言われてみれば矛盾に満ちた行政とのズレも初めて認識しました。
経済と環境がせめぎあう狭間で、マタギも大きな視野で学ばねばならないことがあるでしょう。しかし私たちは彼らが受け継いできた知恵については学ぼうとはせず、声高に自然環境保護を唱えるばかりで右往左往しているように見えます。
そもそもこの会に参加させて頂くきっかけとなった奥三面の縄文遺跡群は、営々と続いてきたマタギの集落 奥三面村が消え去った後に発掘された遺跡なのです。昭和61年、ダムの建設計画にもとづいて村人は全員退去、村は更地となり、そこを発掘して姿を現したのが縄文の村だったのです。
二つの川が出合うところにストーンサークルをつくり、河岸段丘にいくつもの小さな集落を持って移り住み、端正な石斧を作った縄文の人々がそこにはいました。
縄文の子どもたち より
山から見つけてきたのでしょうか。
光る雲母で村を横断する道を舗装していた村もありました。
その道は住居域と墓地を分けていたそうです。
光る道は生者と死者の世界の境界だったのでしょうか。
至る所に沢や湧水があり、魚や山菜が豊かにとれることは昭和の奥三面村になっても変わらなかったそうです。遺跡の裏の河岸段丘には縄文人が造ったイノシシ用の落とし穴も多く見つかりました。
縄文から昭和まで、数千年のあいだ狩人たちが繰り返し選び、住みついたその豊かな土地は、今はダム湖の底です。
ダム以前とダム以降の昭和のマタギたちの暮らしを民俗映画研究所の姫田忠義監督が 「山に生かされた日々 前編・後編」という不朽の映像記録に残しておられます。
田口先生も、その撮影スタッフのひとりであったとうかがいました。
身体と経験で自然世界の法則を深く理解しながら、世の中に自ら発信することが苦手な狩人たち。今こそ社会と彼らは互いに助け合うことができるのに・・・という気持ちがそのときから田口先生を突き動かしているのかもしれないと思います。
“森林環境保全のための有識者”・・・マタギサミットのネーミングはそのあたりを大いにアピールしているのでは?と思ったりします。
「 かわいそうに、どうして動物を殺すの? 」と孫に言われるよと、寂しそうに言っていた老マタギの声が忘れられません。
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ