武満徹の音楽はときどき映画やテレビのエンドロールなどで印象深く聴くことはありましたが その抽象的な印象から「前衛だな」という程度の解釈でした。
2003年、浅間縄文ミュージアムが開館記念特別展として「武満徹-御代田の森のなかでー」を挙行されたとき 私は初めてこの作曲家が天才といわれた所以を教えてもらった気がします。
「信州の小さな町、御代田で何故 武満??」・・・と私も思いましたが、御代田にあった山荘が作曲家にとって曲想を得るため、しいては作曲活動そのものに最も大切な場所であったということを知って、自然のなかに音と旋律を探した現代音楽家の姿がにわかに身近に立ち現れたのでした。
この特別展を開館記念に企画された学芸員、堤さんの武満への静かに深い共感と理解がそこここに感じられる、それは素晴らしい展覧会でした。そのとき買い求めた美しい装丁の図録によって、感動は今も私の書棚で息づいています。なかでも心に残るのは 武満が交響曲を発想するときに書いたスケッチです。
交響曲という複雑きわまりない多次元的で重層的な創作イメージが、作曲家の中でどのように形づくられていくのか・・・?と、さっぱり楽才の無い私はかねがね謎に思っていたのです。
武満が楽想のために描いたスケッチは、あるときはこの上なく繊細な図形であり、色彩とフォルムであり、またあるときは詩でありいくつかの言葉でした。
図形や色彩から大いなる音楽が想起されていくという発見は私には衝撃でした。
「音は、時間を歩行しているからいつも新しい容貌でわれわれの傍らにいる」
・・・音楽家であるからこその美しい比喩には心が揺り動かされます。
音を考え抜いた人として、言葉と文字につても武満は鋭い考察を述べています。これは武満徹展図録のなかで堤さんが抜書きをされている箇所です。
協奏曲November Steps に関するノオトから
―発音するー
「文字をもたない民族の言葉は、発音と伝達する内容とのあいだに密接な関わりがあり、それは美しく一致している。・・・語彙は少ないが、言葉は多義的な広がりをもっている。そこでは、言葉は、その発生と連繋のしかたで多様な変化を獲得する・・・これらの言葉は、すべて沈黙を母体としてうまれ、発音されることで生命をもつ。」
音が発せられている時間と それらの間に存在する「間」という時間 に同等の重要性を見出した作曲家は、発音されながら文字に記録されないことばにも同じ眼差しをむけて 文字を持つ文化と持たない文化との本質的な違いを鋭く突くのでした。
文字にして書きとめることで記録されてきた人間の歴史ですが 縄文やケルトの先住民文明には文字がありませんでした。 天才作曲家が示唆するように 「発生と連繋のしかたで多様な変化をとげる」言葉をもった人々がそこにいて、長い夜に焚き火を囲んで祖先の物語を語っていたのでしょう。
「沈黙を母胎として」存在するそれらの言葉は、発音されるたびに彼らの唇から生まれ、聴く者にうけとめられる。 うけとめる人の心なくしては、発せられた言葉はどれひとつとして一秒も生きながらえる事はないのです。
部族の記憶は文字ではなく 人の心に刻まれてのみこの世にあり、多様に変容する発音と語彙と暗示によって自由に姿を変えながら 子孫に伝えられていったのでしょう。
その物語は 人とその周りの世界をつなぐ執り成し役としてしなやかに働きつづけ、精霊はそこで自由に姿を変えました。文字のない物語は何の合理性も追求されずイメージが飛翔するまま 果てしない人間精神の世界を耕していったのでしょう。
縄文時代の出土品を見るとき 武満徹が音楽について語った言葉を私は思い出します。
彼の言葉をこう言いかえてみてはどうでしょう?
「そこに形づくられた姿や紋様は 名詞化される前の状態であり、それで縄文の物語が限定されるようなことがあってはならない。」
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ