地球上の人類に30世紀の世界があったとしましょう。
TOKYOやNEW YORKを発掘した考古学者がもしそこにいたなら、彼らはこう言うかもしれません・・・「The hardest time of the human history」
「スペースオデッセイ」
「20世紀あたりの人類は、どこもかしこもガラスとメタルと粉にした石を固めたもので覆いつくして暮らしていたらしい・・・20世紀と21世紀は人類が歴史上最も固いもので覆われた環境で暮らした時代である。
水は鉄の管に流され、川は人造の石に覆われ、人は好んで石とガラスとメタルでできた四角い家に住み、メタルとガラスとゴムでできた乗り物で移動した。
理由はよくわからないが、何かのために彼らが異常に過密に住んだエリアには、石とメタルとガラスの塔が林立していた。これらは、彼らが欲しいままに破壊し、風景から消し去った地上の山々への悔恨のオマージュか、または自然を憎む余りの拒絶の象徴なのか?いや、ひょっとすると、争いに明け暮れるお互いを恐れて引きこもった天空の要塞なのか・・・?」
30世紀、もし人が自分の価値観だけでこの星を荒らしまわることに飽きて、「都市」という堅牢で排他的な城から脱出し、人類を含めた惑星のビオトープという思想に立ち返り、今の私達には想像ができないような壮大なソフトウエアを構築して、地球とそのあらゆる分身との真の共存を可能にしていたら、超未来の人々はどのようなところに住むのでしょうか。
それは雑木林や泉の畔の小高い丘である・・・とは思いませんか?
永い永い試行錯誤の旅路の跡に 人は結局そこへ、縄文人が暮らしたところへ帰るかもしれません。
(アクリル、木片)
共存するための環境の摂理を学んだ末の未来の科学は、どのような住居を、どのような関係を人と惑星に可能にしてくれるのか・・・と考えてみました。
そこでは、鉄筋が入ったコンクリートの壁はなく、風を遮るガラスの窓もなく、もっと柔軟に、不可視なかたちで人の住居が保証され護られ、また開放されもしている とイメージしてみるとどうでしょうか?
光と風を取り入れながら 毒虫や雨漏れを他へと逃がし、快適に開放的な住居に住み、動植物と分かつべきは分かち、必要なだけを食べ、蓄える必要はなく、住み分け、争わず、人はあらゆることの調和に眼を配っている。小鳥のさえずりと音楽をコラボし、せせらぎの中で目覚めるために、科学と技術の粋が発揮されている。
今の映画や劇画で見る限り、さして幸せそうな未来の姿は見当たりません。
しかし、よりよい形の未来は より悲観的な未来と同じくらいの比率で訪れることが可能だ とは言えないでしょうか?
10世紀の人間が、高層ビルや飛行機やインターネットを想像もし得なかったように 20世紀の私たちが 思い描くことさえできないかたちで 未来はやってくるのでしょう。
20世紀、21世紀はひょっとすると人類のとんでもない勘違いと回り道の時代なのかもしれません。西欧で生まれた、力でねじ伏せる文明をあがめて 静粛に深遠に知恵を育んできたいくつもの平和な部族が滅ぼされ、虐げられ、顧みられなかった時代。
武力と経済力で勝っていたために はびこっている人々は、人間どうしで絶えず争い、虐げ合い、生き物を征服しようとし、自分のために環境を変える。
(アクリル、紙)
この惑星との繊細な関係の持ち方を知る崇高な知恵が、武力で葬り去られてきたのが 私たちが生きている時代なのかもしれないと 思うときがあります。
いつの未来か、ティーンエイジャーが分別を知るように、謙虚さを学んだ人間が、物静かに忍耐強く見守っていてくれた大いなる存在に気がつき、その摂理を再び受け入れるときが来るかもしれない。
そのとき、人々が戻ろうとする処は、人間が初めて村を作った高台かもしれないとは思いませんか?
多くを犠牲にしながら学んだことで、恐怖と呪縛からは開放されながら、あらゆる命と共生し、営みと調和して暮らすことが文明の最も大切な目的になる。
未来の考古学者はその変革のときを「縄文ルネッサンス」と呼ぶかもしれない・・・というSFオデッセイを考えてみたのでした!
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ