国立民族学博物館の初代館長であり、日本を代表する民族学者である梅棹忠夫氏(1920年生-2010年没)に関する特別展「ウメサオタダオ展」(於:国立民族学博物館)が、6月14日(火)に終わった。開始して2日目の3月11日に東日本大震災があり出足が遅れたのだが、後半はたくさんの人がやってきた。おもな展示品は梅棹資料室にある、少年時代からはじまる、山や探検、学術調査のフィールド・ノート、スケッチ、写真などの記録と、それらをもとに書かれた出版物で、博物館には不向きな平ったいものが多いのに、関係者の努力でなかなか見ごたえのあるものになっていた。
あらためて驚かされるのは、その知的生産力のすごさである。梅棹さんには『文明の生態史観』、『知的生産の技術』「情報産業論」』などの一世を風靡した代表作があるが、亡くなる直前まで「やり残している」と言っていたのが、『日本文明は三内丸山にはじまる』という本づくりだった。いま、論文「都市神殿論」、講演、シンポジウム、エッセイやインタビューなどの記録を目の前にドンと積み上げられ、「まとめるのはセンセイの役目」と秘書の三原さんに迫られて、途方にくれているところ。
1995年、岡田康博さんに案内されて、あの六本柱遺構の前に立ったとき、梅棹さんは「これは神殿やな。太い柱が天に向かってそそりたっていた、てっぺんには鳥籠のような、カミの座がちょこんとおいてあった」と鮮やかなイメージを語った。
なぜ神殿か?都市の起源は交易などの経済活動ではなく、神殿を中心とした情報交換の場であったという仮説をもっていたからだ。アンデスの古代文明、吉野ヶ里、出雲大社から大仏殿につながり、そこにさまざまな都市のあり様が結びついたのだろう。これで「日本文明史の筋道がはっきり見えた」と言ったのである。
じつは、梅棹さんを三内丸山遺跡に連れ出すまでにはずいぶん時間がかかった。考古学への不信感があったからだ。「考古学が信用できんのは、1つの発見で、すべてがひっくり返ってしまう。発見してないもの=0とするからだ」。「細部にこだわらず、大きな構造をとらえて論じるべきだ」と。
三内丸山遺跡は1994年の直径1mの六本柱発見の報道をきっかけに、縄文都市だという説がでて、たくさんの人がつめかけた。ところが、考古学者は否定的だった。それを打ち破り、この遺跡を正しく位置づけたのが梅棹さんだった。「既成概念にとらわれないで、もっと自由に大胆な仮説をたてて考えなさい。そうすればもっと豊かな世界が楽しめるはずです」と梅棹さんは言っていたのだといま振り返って思う。