この連載ではカタチから見える、縄文人の知恵や工夫、そして心の世界にアプローチしたいと思います。土器は縄文時代の開始とともに登場します。人類が最初に手に入れた化学変化を利用した技術とされています。土器を持つことによって、煮炊きが可能となり、利用できる自然の恵みは格段と多くなり、食生活の安定と衛生環境の向上をもたらしました。日本列島の縄文土器のカタチや装飾は実に多様で、世界の中で最も土器作りが発達し、美しい土器が作られた地域といってよいでしょう。最古の土器は青森県外ヶ浜町大平山元Ⅰ遺跡から出土していますが、この土器は模様がない無文土器(むもんどき)で、底は平底です。しかし、それに後続する土器は底が尖った尖底土器(せんていどき)となっています。そして、今から約1万年前、縄目の模様の土器が登場します。その土器は平底ですが、その後は尖底や丸底の土器が続き、ようやく約6千年前から平底の土器が一般的になり、その後はずっと平底土器の時代が続きます。底は必ずしも進化論的に尖底→丸底→平底とはなってはいないわけです。

平底土器(青森市三内丸山遺跡 前期)
尖底や丸底の土器はどのようにして使われたのでしょうか。実に不安定のように思われます。縄文の人々は土器の大きさほどの浅い穴を掘り、そこに差し込むように立て、調理に使いました。このことは、尖底の土器をよく観察すると、底の周りは火熱を受けて赤く変色していますが、穴に入っている部分はあまり赤くはなっていないことからもわかります。この時代には住居の外での調理が一般的であったようで、屋外から炉や焼土の跡が見つかる場合が見られます。

尖底土器(六ヶ所村千歳(13)遺跡 早期)
土器の底のカタチは土器づくりの技術とともに変化するのではなく、縄文の人々のライフスタイルに必要なカタチであったものと考えられます。定住生活の成熟とともに、住居の中での調理や貯蔵も多くなり、それに伴って平底土器に変わっていくものと考えられます。
(青森県教育庁文化財保護課長 岡田 康博)