小松左京さんが亡くなった。なんだかとても寂しい。
小松さんは、いまさら言うまでもなく、大ベストセラー『日本沈没』の作家、大阪万博、花博のプロデューサーをはじめとする仕事を次々とこなして、文化的怪物のような人だった。雲の上の人だと思っていたのだが、「わしは応援団長なのだ」と、できたばかりのミンパク(国立民族学博物館)にちょくちょくやって来るので、いつのまにか仲間になって長い付き合いとなった。
ドライマティーニが好きで、氷で満たした大きなコップにジンをガンガン入れて飲む。「夏、すずしい縁側で、蚊取り線香をたき、浴衣の袖をまくって、うちわバタバタでのむのがいいなァー」とホテルのバーで言うので、名探偵フィリップマーロウと(池波正太郎の)鬼平がごっちゃになったふしぎな世界に迷いこんだ気がした。
小松さんには、三内丸山遺跡では大変お世話になった。とくに、1996年の「縄文まほろば展」の時は、何度か現地に足を運んでいただいた。NHKの特別番組が全国放送になったのは、小松さんのおかげだと思っている。
あの頃、発掘の整理も一段落し、研究も深化してくると、どうしても学問的な面が強調され、おもしろさがなくなってくる。それを打ち破るために、SF的発想、たとえば『日本アパッチ族』のような縄文人が暴れまわる展開もほしいものだと、ひそかに期待していた。
ところが小松さんは、放射性炭素年代測定の正否、十和田の噴火と植生変化、何百人もの大集落の食料をどう調達したのかなど、科学的に迫ってきた。ただ、縄文前期に温暖化がピークに達したのは、縄文人はそんなにたくさん車を走らせていたのかという質問には笑いだすとともに、地球温暖化問題への鋭い批判がこめられていることを感じた。
どうして科学的になったのか。小松さんは1995年の阪神大震災を直接体験し、先輩や友人が被害を受けたり、危機一髪の目にあったこと。それになにより神戸が少年時代を送った思いのこもった地であったから、それを記録しようとしたからではないか。それは『小松左京の大震災’95』にまとめられているが、脱稿後は心身ともに疲れ果てうつ病になったと、あとがきにある。三内丸山遺跡訪問時は、ちょうどその記録を新聞連載中だった。
内容はプレートテクトニック理論から現場の報告まで幅広く、特に地方自治体、マスコミ、被災者の聞き書きに迫力がある。ある意味では、『日本沈没』よりも力の入った大作である。
心の痛みに耐えながら、詳細な記録を残した小松さんの生きざまは、今、東日本大震災の混乱と不安に面している私たち日本人に示唆するところが多いと思う。