世界遺産を目指すに当たっての最大の不安は、縄文文化の価値を顕著に物語る縄文遺跡がそもそも世界遺産になじまない、あるいは価値の判断について時期尚早ということで、門前払いのような形で評価されはしないか、ということであった。
92年に125ヶ国目として世界遺産条約を締結した日本は、直ちに国内候補である暫定リストに記載する物件の選定を行った。その際、縄文遺跡も候補に挙がったらしいが、縄文文化についての国内外での評価が定まっていないことや、地下遺構から構成されることなどから価値が判りづらい、などの理由から見送られたという話を以前から聞いていた。実際に、当時の文化庁から縄文文化や三内丸山遺跡について外国語で書かれた論文等の資料提供を求められ、手元にあるものを送った記憶がある。また、日本列島全域にひろがる縄文文化をひとつの遺跡で代表させるのは無理があり、単独ではなく複数の遺跡で構成する必要があることも聞いていた。
その一方で、この15年間で縄文文化に関する研究は三内丸山遺跡の発掘調査に代表されるように量・質ともに飛躍的に向上し、国内的にもその周知は格段に進んだ。未開、未発達の原始文化という理解は大きく変わってきた。日本の歴史や文化の成り立ちを考える上では欠かすことのできないものであり、さらには地方の歴史を知る上では不可欠な地位を自然と占めていたように思う。これは学会だけでなし得たものではなく、それこそ、マスコミや地域の人々が縄文遺跡に大きな関心を寄せたことが大きく作用したと思う。
余談であるが、「平泉」が今年の世界遺産委員会において登録延期となり、「平泉」でさえ難しいのに「縄文遺跡群」がなるわけがないとしたり顔で語る人がいるが、縄文文化の研究はモースによる大森貝塚の発掘調査以来、百年以上の伝統と成果の積み重ねがあり、数多くの縄文遺跡が調査され、解明が進められてきた。情報の質と量は「平泉」とは比較にならないほど充実しているという大きな違いがある。
このようなことをしっかりと頭の中に刻み込み、提案書づくりは進められることになった。とにかく、まずは、文化庁にはきちんと縄文文化の価値を伝え、そのことを認識してもらうことを最大の目標としてコンセプトを整理することにした。最初に資産となる遺跡ありきではなく、テーマとなる縄文文化そのものの価値を主張することが大事だと、思案の末に決断した。このような大きなテーマに一つの地方自治体に過ぎない青森県が挑むのは大胆かもしれないが、どうしても越えなければならない大きな課題であった。ちなみに平成18年度に秋田県等が提案した「ストーンサークル」では縄文文化の価値については残念ながら全く触れていない。(続く)