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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第5回 縄文農耕と人口アレルギー 2011年10月18日

かつて、縄文時代の人口を推算したとき、早期から前期に向かって急速に伸び中期にピークに達したあと後期から激減するという、不思議な曲線が現れた。その頃は縄文時代は単純な狩猟採集経済だと考えていたので、解釈に苦しんだ。

背後に気候の温暖化・寒冷化がありそうなのだが、中期までは東日本に集中し、後期からは西日本で増えるという現象もあり、そう簡単に環境決定論では説明できないのである。

日本の考古学も最近は、土器や石器ばかりでなく、微細な植物遺物の検出にも努めるようになり目覚ましい成果をあげている。なかには、栽培植物がたくさんあって縄文時代に農耕があったことは否定できなくなってきた。国際シンポジウムで外国の研究者から、これほどの証拠があるのに、なぜ日本の考古学者は後ろ向きなのかと問い詰められたことがある。

なかでも、ヒエは北海道・東北地方で、野生から栽培へのプロセスが明らかにされ、ほかにソバ、ダイズ、アズキ、アブラナ類(ダイコンやカブ)、シソ、エゴマなどもあって農耕の条件の1つである「作物複合」が出来ていたらしいのだ。さらに興味深いのは辻誠一郎さんがマメ類も日本で栽培化された可能性があると言っていること。すると縄文人は自力で農耕を始めたわけだ。わたしはそれは焼畑農耕だったと考えている。

「農耕」というキーワードを入れると、前期から中期の人口増は説明しやすくなる。食事情が安定したために、遺跡に大規模なものが増え、大型モニュメントがつくられ、物質文化が豊かになることは三内丸山遺跡が証明するところである。 それでは、後期からの人口急減はどうか?「最近おもしろい論文が出てますよ」と総合地球環境学研究所の内山純蔵さんに教えられた。ヨーロッパ各地(ポーランド、デンマーク、ドイツ)で、新石器時代(すなわち農耕の開始)に入ると、遺跡数が増加し、その後突然激減する。この現象は縄文の人口曲線と一致するのである。しかし、彼らも原因が説明し切れなくて、仲間うちで人口アレルギー(急激な増加に対する拒否反応)と呼んでいるそうだ。 あるシステムが成功して絶大な成果を挙げるが、まわりがそれについていけなくて崩壊し、立ち直りに時間を要するというメカニズムは私たちも経済バブルで身にしみて経験したことである。

ヨーロッパの遺跡

プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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