はじめて「こころ縄文人」ということばを聞いたのは、2000年1月、東京縄文塾のことでした。縄文塾というのは、わたしたちのNPO法人・三内丸山縄文発信の会が、定期的に開いている勉強会です。(この発信の会については、折々お話することになると思います。)
その日、メンバーの照井勝也さんから、「こころ縄文人になろう」という発言がありました。そのことばが、電気のショックのように、わたしたちのこころに衝撃を与えました。
そのあと、「縄文ファイル」という発信の会の機関紙を通して呼びかけたところ、たくさんの方から「こころ縄文人からのメッセージ」が寄せられました。
「こころ縄文人」ということばが、なぜそれほどまでに、わたしたちのこころを揺さぶったのでしょうか。「こころ」と「縄文人」が合体したとき、それは強烈なインパクトを与えたことは、間違いありません。
そのワケは、一言で言うと「外なる縄文から内なる縄文への転換」とでもいいましょうか。
三内丸山遺跡が、1994年、一躍話題を集めてから、大量の土器や巨大な木柱そして大型住居跡など、そのモノのすごさに圧倒されてきました。なんとなく、モノとして縄文に向き合うのが当たり前という常識を「こころ縄文人」は、打ち破ったのかもしれません。
それは、言い換えれば、縄文人の身の丈(たけ)で、縄文人のこころを見直してみたらという発想です。さらに、「縄文人になろう」ではなく、「こころ縄文人になろう」というのが、新鮮でした。現代人と縄文人の垣根を越えてみたらというニュアンスがあります。
その底流には、現代人のわれわれは、いまさら縄文人になれないけれども、縄文人をより身近に感じて、「こころ縄文人」にはなれるのではないかという期待がこめられています。
それは、とてもわくわくするような考えでした。このことばに飛びついた気持ちの底には、
ゆきづまっている現代人に、もっと違う生き方のモノサシを与えてくれるのではないかという期待があったことも確かです。
ただ、それは、けっして簡単なことでは、ありませんでした。
「こころ縄文人になる」とは、いったいどういうことなのでしょうか。
この10年余り、わたしたちは、さまざまな縄文の市民運動を繰り広げてきました。
毎年秋には、きまって、縄文の丘で、お月見縄文祭を開き、縄文時代のお月見に思いをはせてきました。その夜、お月見コンサートを開き、月の出を待ちながら、楽器の音色に、
耳を傾けました。
同じ日、音楽やアートのワークショップを開き、縄文を体感しようと試みました。
また、全国各地で、多くの講師を招いて、縄文塾と名づけた勉強会を重ねてきました。
これらの活動は、結局、「こころ縄文人」を感じとりたい、見極めたいという試みの
積み重ねだったような気がします。
「こころ縄文人」は、まだまだぼんやりしていますが、少しづつその輪郭が見えてきました。
次回からは、いまなぜ縄文なのか?「こころ縄文人になる」とは、どういうことなのか?
この10年余りの試みをもとに、「縄文のワケ」を探る旅に出たいと思います。