1994年夏、三内丸山遺跡で開かれた現地説明会に、2日間で8000人のひとが集まりました。作家の司馬遼太郎さんに、このことを報告すると、こんな手紙をいただきました。この年、「街道をゆく・北のまほろば」の取材で、司馬さんは、2度も津軽を訪れ、たまたま私が津軽を案内したという経緯がありました。
「三内丸山遺跡は、県民だけでなく、私ども他に住む者にも勇気をあたえました。
県下八千人の人々がきてくれたとのこと、近頃これほどのよろこびをおぼえたことはありません。一つは遠きものへのあこがれ、二つは遠きものを自分に組み入れる自己の確立の
よろこびというものでしょう。
他者からみれば、ただのアナボコをみてさまざまに想像を構築できる教養をひとびとは
―戦後五十年のあいだに―身につけたということです。世界一のレベルではないかと思ったりします。お手紙の返事の如き。八月十五日」
司馬さんが、いみじくも指摘するように、アナボコを見て想像力をたくましくすることが出来る時代に、三内丸山遺跡は出現したのだと思います。
三内丸山の登場が、もう少し早くても、もう少し遅くてもだめだったでしょう。
まさに、それは、20世紀の世紀末のわたしたちに、強烈なメッセージを与えるために、その姿を現したといっていいと思います。
だからこそ、炎天下、2日間で8000人の市民が遺跡に集まったのだと思います。
市民が遺跡を後押ししている―そんな実感がありました。
三内丸山遺跡は、その絶妙のタイミングがおおいに味方したと思います。
さらに、三内丸山が話題になった数年後、九州の南端で、とても興味深い縄文遺跡が姿を現します。
鹿児島県の上野原遺跡です。
この発見は、日本列島が縄文列島だったことを確認する重要な遺跡でした。
次回は、縄文列島のワケを探っていきます。