三内丸山遺跡が、話題になった1994年の数年後、九州南部・鹿児島県で縄文の遺跡が発見され一躍注目されました。上野原遺跡です。
それまで、九州は、吉野ヶ里遺跡など弥生の遺跡は知られていましたが、縄文の立派な遺跡が出土することは、きわめて珍しいことでした。
わたしは、さっそく現地に出かけました。
その遺跡は、錦江湾に向き合い、目の前に煙をあげた桜島に臨む小高い丘の上にありました。第一印象は、懐かしくどこかで見たような気がしました。
錦江湾を眼の目にした小高い丘。
それは陸奥湾に臨んだ三内丸山遺跡を思わせました。
眼の前の光景をちょうど南北さかさまにすると三内丸山遺跡に重なります。
三内丸山に、縄文の集落があったころ、北に陸奥湾が広がり、その向こうに下北半島の恐山がよく見えたことでしょう。恐山は、噴火の白煙を上げていたかも知れません。
錦港湾と陸奥湾。桜島と恐山。それをみはらす小高い丘。
海・火山・丘。この縄文独特のロケーションは、縄文人が集落を定めるうえで、共通した特徴となっているような気がします。このことは、次回じっくり考えてみたいと思います。
ところで、1994年の青森県の三内丸山遺跡の出現とその数年後の南九州・鹿児島県の上野原遺跡の出現は、偶然とは言えない大切な意味を持っていると思います。
青森県の三内丸山遺跡は、野球場の建設予定地から、鹿児島県の上野原遺跡は、工業団地の予定地から、その姿を現しました。このことは、日本列島の開発の波が、北と南の端にまでたどり着いたことを示しています。
さらに、その結果、日本列島は、北から南まで、縄文文化が花開いた「縄文列島」だったことが、改めて実証されました。それまでの西日本は、もっぱら弥生文化、東日本はもっぱら縄文文化という常識が覆されたのです。
奇しくも、20世紀末、日本列島の北と南から、相前後して姿を現した縄文の巨大遺跡。それは、わたしたちに、日本列島の縄文文化について、貴重なメッセージをなげかけているのです。
次回は、縄文の「風水」のワケを考えて見ます。