若草山の山焼きは、奈良の春の訪れをつげる行事で今年は1月28日(土)に行われる。わたしの書斎からはるかに若草山が望めるので、ここ数年は友人が集まってくる。初めのころは、現場まで出かけたり、望遠レンズをすえたり、けっこう熱心だったが、最近は夜空に繰り広げられる火の祭典を楽しみながら酒を飲んでダベるばかり、これではお花見ならぬ、お火見である。
わたしが山焼きに興味を持ったのは、オーストラリアの先住民であるアボリジニの長老との論争で言い負かされたからである。彼らは林や草原にしょっちゅう火を放つので、「なんとヤバンな、あぶないじゃないか」と言ったら、「日本人は都会の真ん中で山を燃やしてるじゃないか」と言い返えされた。はい、確かにそうです。
アボリジニの火付けは、時期、場所についての経験に基づくシステムであり、神話に語られ部族の掟として守られているものである。その要諦は、火によって森をひらいて住みやすくし、草原を活性化させて動・植物の生産性をあげることだ。考古学者のR.ジョーンズはこれを火付け棒「農耕」と呼んでいる。彼らはそれを火山爆発や自然火災から学んだのだろう。
環境史が専門の辻誠一郎さん(東京大学大学院教授)は、三内丸山遺跡の大集落は、縄文時代前期の八甲田山の大噴火がきっかけだったと主張している。はじめにこの地を覆っていたブナなどからなる極相林は近寄り難かったが、噴火で森が壊されて、草原に近い住みやすい環境が生まれたからだ。
そういえば、史跡上野原遺跡(鹿児島県)で、黄色の火山灰と、(人の住んだことを示す)黒い腐植土が縞状に織りなす地層断面をみて、「こんなにたびたび噴火に襲われ、彼らも大変だったのでしょうな」といったら「いえいえ、灰の原から森林まで遷移するプロセスで植物が活性化するので、資源は豊かだったはず」と言われたのは目からウロコだった。
火を使って環境をコントロールするのが人の開発した技術だとすると焼畑農耕に考えがおよぶ。焼畑は環境への影響が問題にされることが多いが、(化学薬品を使わない)栄養分の循環、作物の多様性をもつ自然農法としての見直しがおこなわれている。焼畑は現在でも世界で広く行われているが、日本でも1960年代までは盛んだった。その主作物は、ヒエ、アワ、アズキ、ダイコン、カブであり、周辺や跡地にできる、ワラビやタケノコも重要だった。最近の考古学の成果はこれらの品目が縄文時代に広く使われていたことが明らかになってきた。それを踏まえると縄文時代前期に日本で焼畑が生まれたと考えるようになった。まだ証明すべきことは多いが、たしかな道すじが見えてきたと思う。