「あそこのおかあさん縄文人だから」を書いている私にとって、「縄文」とは一体何なのか?というと。それは明らかに、野性に繋がっているのです。
現代社会で失ってしまった「野性」を、縄文人のお母さんとしては取り戻したいと考えているのです。何故なら、あまりにも頭だけが発達してしまった現代において、人間は頭と小手先だけで生活していけるようになってしまったと思いませんか?
歩かなくても車で移動できるし、仕事に出ても、パソコンの前から微動だにしないくらいです。そういうことが、私を私の身体から遠ざけている気がするのです。
私は、私の身体を取り戻したい。
自分の手が何のためにあって、自分の足が何のためにあるのか。裸足になって土の上を歩いてみたい。手掴みでご飯を食べてみたい。そういった野性を取り戻すために、とりあえず庭でサンマを焼いてみたり、縄文式の家を建ててみたりするわけですが。
そうしていると、思いがけないことに自分の頭と身体が一致する瞬間が訪れるのです。サンマを焼いている瞬間に、庭に穴を掘っている間に、ピタリと。
自分の心と体が、しっかりと自分に寄り添っているような。そういう瞬間が、自家用竪穴式住居を建てている時に何度も訪れました。恐らく、ひたすらに穴を掘っていたり、ひたすらに火を起こしているうちに、「頭がいらなく」なってしまったせいなのでしょう。
その時あったのは、「この、竪穴式の家を、みんなで完成させたい……!」という思いだけでした。
五日間で完成した我が家は、決して天候に恵まれて作ったわけでもなく、メンバー全員が健康だったわけでもありません。基本的にみんな、どこかしら身体に欠陥を抱えていて。それなのに生きるエネルギーに溢れ返った人達だったのです。
建設初日の降水確率は80パーセントだったのですが。我々「縄文友の会」としては、雨に降られて中止するわけにもいきませんので。私の独断により「呪術を使って乗り切る」ことに決定しました(呪術って…。)
メンバーにシャーマニックな舞踏家の雪雄子(ゆきゆうこ)さんがおられたこともあって、雨が降りそうな気配を感じると、とにかく私と雪さんは全身で踊り、神に祈りを捧げ、どうにか雨が降らないようにと、踊りで天気を持ちこたえさせようとしたのです。
その結果。建設時間の午前から午後の四時にかけては、降水確率80パーセントの中、雨が落ちてくるのは休憩中の昼食時間、三時台、その日の夜間に集中。「作業開始とともに晴れる」という、なんとも神がかり的な事態が訪れたのです。しかも、それが五日連続で!
恐らく、縄文時代の人たちは、自分の頭と身体が一致しないなんてことはなかったのだと思うのです。生きていることが即、その心と身体で感じることに繋がっていたのだと思うのです。余計なことは考えない。
ただひたすらに、雨が止んでくれることを祈って踊る。ひたすらに穴を掘る。ひたすらに屋根を葺く。
住居はもちろん、縄文土器もそういう風にして、作られたんじゃないかと思うのです。
縄文土器の縄目、手で創られた火焔式土器の文様。五千年前の縄文土器の破片を手に取ってみると、「これは何千年前のものだろう?」と以前は考えていたのですが。ふいに、「これは一体、誰が作ったんだろう?」と思い立ったことがありました。
その瞬間に、その土器の文様を作った人の生き様とか、女性だったんだろうか?男性だったんだろうか?子供はいたのだろうか?いなかったのだろうか?と。急に、その土器の破片が生々しく感じられたことがあります。
生きることと生活の全てが密着していた縄文時代。その時代の精神を。あそこのおかあさんはおかあさんなりの方法で、取り戻したいと思っているのです。