北海道と北東北の縄文遺跡群が、世界遺産の暫定リストに登録されて。
大変喜ぶべきことなのですが。縄文人のおかあさんとしては、一つだけ気を付けなくてはならないと思っていることがあります。
果たして。世界遺産に登録された後、我々は「何もしない」という選択が、できるのかどうかと。こと、縄文遺跡に関しては何かをすればするほど、遺跡から立ち上る「縄文の空気」というものが、消えていく傾向にあると思うのです。
何故なら。何かをするのは我々、現代人であるからです。
現代人の考えというのは、誠に単純で浅はかです。
「せっかく遺跡が出たのだから、ここにコンクリートで巨大モニュメントを建てよう!」とか。「遺跡が出たのだからここを記念公園として整備しよう!」とか。「縄文遺跡を観に来る人にお土産が必要だから、縄文Tシャツや縄文トレーナーを作って売りに出そう!」とか。誠に、現代的なのです。
何かをすればするほど「縄文から遠ざかっていく」ことに、「誰も気付かないのではないか?」と。私が不安に思うほど、そのモニュメントは造られ、縄文グッズを売りにした、ショッピングモールは建てられる傾向にあります。そうならないためには、本当に、よほど気を付けなくてはならないのです。
もちろん、出土した土器や遺物を見て、その時代に思いを馳せるのはとても重要なことです。しかし、我々はその「伝える手だて」をよく、間違えます。考古学的にわかったことの感動を、近代的な建物の中で、TV画面を使ってわかりやすくアニメのキャラクターが紹介したり、遺跡をライトアップしたり、「縄文人の暮らし」みたいに、ロウ人形に石槍や土器などを持たせて再現しがちです。(博物館によくあるよね……)
「その方法論、一見普通に見えて、何か間違っていないか……?」と。時折、不安になるのです。
それはあまりにも、現代人の感受性や想像力を、みくびった情報提供であると私は思うのです。聖地に立つだけで、縄文土器に触れるだけで、感じられるものがあるのではないか? と。
このような気持ちを激しく、的確に文章に表現した人が、岡本太郎だと思うのです。
岡本太郎は彼の著書『美の呪力』(新潮文庫)において、このように語っていました。
「かつて私は沖縄に行ったとき、そこで一番神聖な場所、久高島の御嶽(うたき)を訪ねて、強烈にうたれた。そこは神の天降る聖所だが、森の中のわずかな空地に、なんでもない、ただの石ころが三つ四つ、落葉に埋もれてころがっているだけだ。私は、これこそわれわれの文化の原型だと、衝撃的にさとった。(中略)」
「そのなんにもなさ、無いということのキヨラカサにふれて、言いようのない生命観が瞬間に私のうちによみがえったのだ。逆に、物として、重みとして残ることはわれわれ日本人にとって、一種の不潔さ、穢れのようなものではないか、ということさえ。
それはかつて縄文土器をはじめて見たときに覚えたなまなましい感動と、一見裏がえしのようだが、なにか同質の、いわば生命の共感ともいうべきものだった。」
この後、太郎は沖縄の歴史と文化レベルの高さに触れて、「そういうところで最も神聖な場所には何もないということは、明らかに積極的な選択があったと見るべきだろう。」と結んでいます。
私は、縄文を伝えることによってこの、「生命の共感を得たい」と思っているのです。そのための策というものを。「その場所に何もしない」ということを選択し、共に感じる手だてを。考えたいと思っているのです。
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