故郷を離れて、はや30年近く。新緑が日々、色を増す今の時期になると必ず恋しくなるのが、青森の山菜である。と同時に、食いしん坊は思い出す。美味を満喫しているであろう、白神の森に住むサルたちのことを。
初めて白神山地のトレッキングに出かけたのは、6月半ばのこと。ブナの森の緑の美しさにも増して心を奪われたのは、鼻腔をくすぐる独特の匂いだった。いわゆる森林の……的な爽やかな香りのなかに、甘く、ときに酸っぱい、腐臭ぎりぎりの食欲をそそる匂いが感じられたのである。その直後、目にしたのは、先っぽのおいしいところだけを上手に食い散らかした、ネマガリダケの残骸。
「誰? こんな贅沢な食べ方をしたのはっ??」。
憎っくき犯人は、森の茂みから時折顔をのぞかせていたニホンザルだった。狭い心が羨望でいっぱいになっているのを悟ったガイドさんが、道端の若いウドを摘んでくださる。やわらかな甘みと微かな苦味を含んだその味は、かつて体験したことのないおいしさ。味噌と塩をポケットに忍ばせて山に入る、地元の常連さんも少なくないと聞き、うんまい日本酒でもあれば山菜食べ放題の宴が開けると、食いしん坊はうっとり妄想に浸ったのである。
旨し山菜があふれる秘密は、白神山地を覆うブナの木々にあった。ブナは葉に厚みがあり、腐食しにくいのが特徴。地面に降り積もった落ち葉はスポンジのように雨や雪解け水を蓄えつつ、腐植土と化していく。その滋養を受け、植物は豊かに育まれるというワケ。さらには伏流水が流れこむ日本海の魚もまた、旨さを増すという。散策後にいただいた鰺ヶ沢の魚で白神の多彩な恵みを実感したが、ユネスコの世界遺産登録基準は、陸上のみならず沿岸の生態系も対象になっているではないか。
地面に積もったブナの落ち葉が生み出す、ふかふかの感触。砂浜に打ち寄せる波にも似た、風吹く森の音。山中を歩くだけでも充分に心和むが、それだけで満足するのはもったいないお話である。白神山地の魅力は、世界遺産としての価値は、五臓六腑で楽しめることにあると、食いしん坊は声を大にして言いたい。ブナの森が縄文の頃から続いていたとすれば、当時の人々の麗しき食生活へと思いを馳せる効果もあるはず。森と仲良く共存してきた、日本人の暮らしの原点。おいしい白神を、より多くの方々に堪能していただきたい。その際には、地元の酒コもまた、世界遺産の生態系が生み出す美味であるのをお忘れなく。

写真:松隈直樹

写真:松隈直樹